春鯟と漁民 | 三月も十日になれば所謂鰊の神様が続々として入りこんで来る。古風な信玄袋から、津軽土産の飴ワッパが子供たちを喜ばせ、秋田の干し餅がストーブに並ぶ。 |
四月に入れば吉日を選び、盛大なる網卸しの祝宴が催される。招かれた客はその家の親方を、沖揚げ音頭と共に胴揚げをし、大漁の前祝いをやるのである。この網卸しの行事は年中行事の重要な一つとなっている。鴎の群れは、鰊は(今夜、今夜)と鳴くのだそうな。こうなってくると、いよいよ緊張してくる。武士はくつわの音に目を覚すというが、我々は凪さえよければ、ストーブの端にごろ寝である。海の幸に対して我々は命をかけて挑戦するのだ。 鰊だ---。の声に間髪を入れず櫂の音も勇ましく沖へ乗り出す。十三夜の月影が飴のように海面に揺映する。 海中にスイスイと銀線が行く。これは鰊が腹鱗を月光に見せて遊泳するのである。竿させば、さっと四方に散る無数の銀箭。あの大空の流星が画く銀線を、幾十年幾百年磨いたならば、このような美しさになるだろう。 この美観は我々実際に漁業に従事する者のみに与えられた特権である。既に網にかかった鰊がびしゃびしゃと海面を打つ音は、これまた美しいリズミカルな音響である。ヤン衆の咽喉も裂けよと叫ぶ掛声は一つひとつの塊りとなって墨絵のような樺太山脈に反響する。(樺太時報37号) |
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水芭蕉 | 水芭蕉はあまり日本的な花ではない。花も葉も何か怪異な感を人に与える。椿が咲いて藪鶯が飛び交う本州あたりの田舎で、もしこんな花が咲いていたなら、ちょっと君が悪いことだろう。 |
しかし、雪が消えたのに白樺は未だ芽も吹かない頃の春待つ心に、この白い花を小川のほとりなどで見つけるのが楽しみである。水芭蕉は樺太の原野でのみ親しめるもので、如何にも北方的な匂いをこの花にいみじくも味わうことが出来る。夏も盛りの頃は、この葉はぐんぐん伸びる。瑞しい幅広の葉が束をなして生え全く芭蕉の葉とそっくりの形になるので、周囲の細い雑草のなかでは、ちょっととっぴな存在に見えてくる。夏の葉の伸びきったたくましさもよいが、私には春さきに見る白い花の方がなお好ましいのである。 今年もまた水溜りのふちに水芭蕉の白い花を見つけ、おや、という軽い驚きとともに、私は春の到来を歓喜した。葉がのびないうちに花が咲くが、それだけに北の烈しい自然に耐えて生きる野性の素朴さを示している。 ほのぼのと身にしみるような暖かさで照り下して来る日の光の下では、ぽっかりと、白い花影を水に落している姿には、自らなる清楚な美しさが感じられる。私は顔を近づけたけれど、ただ腐った枯葉と温い土の匂いだけがしていた。(樺太風物抄) |
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蕗 | 発芽=五月、七月=採り入れ生出荷(大泊市場)=乾燥加工、軍用食(寺中氏) 雪解けと同時に芽を出してくる。(蕗のとう)=鉢子内上流 |
泊尾川、鉢子内川流域に繁茂して、背丈二メートルくらいまで伸びて、茎の直径根元で約七cmになり、葉になる傘の部分は上に向って広がり、番傘の大きさになるものまであるので、山歩きで急に雨になったときなどは、傘の代わりに用いた。 北海道のラワン蕗と同様に、太くて長くて青蕗で、水分を多く含んでいるので柔らかく食用はそのまま、また乾燥して非常食、塩蔵して冬場の食料にするため貯蔵する。 昔、一説には乗馬で蕗の原生地を歩くと人馬が見なくなると言われていた。または、蕗の原生地に裸馬が入ると見失うことがあると言われた。昭和十八年ころにはこの生蕗を縄で束ねて海路で大泊港魚菜市場に売り出して案外生活の足しにしたこともある。 |
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J・O・A・K 山田 耕筰 作曲 | |
蕗のはやしのかたつむり しろいおうちをたてました しろいおうちのかたつむり 角のアンテナ出しました ここは樺太、真岡道 馬の背よりも高い蕗 角のアンテナかたつむり J・O・A・K・きいてます (注 J・O・A・KとはN・H・Kラジオ東京第一放送のこと。) |
初言葉集 | ||
元旦 | ●初 詣 | 羽織、袴で近くの神社にお参りする。 |
●若 水 | 日常使用していない場所(例えば泊尾川の氷に一尺くらいの穴を掘って新鮮な寒水を汲みガンガンを天秤棒でかつぐ)できれいな名水 | |
二日目 | ●初売り | 商店が一年で初めて店を開くこと(買う人は景品が沢山当るので、朝の暗い内から並ぶ) |
●初 荷 | 商品の配達、また、運送の仕事初め(米、醤油、味噌、酒、密柑など、大きな品物を馬そりに積み込み大売出しの旗を立てて、半天姿で大勢の人が乗って気勢を挙げるて運搬する) | |
●初仕事 | 初めて仕事をすること(一時間ぐらい) | |
●出初式 | 消防団の人々の初出勤(団員十人くらいで路上の雪の上に固定した十五メートルくらいの梯子を長い鳶で四方から支えて梯子安定した時、芸の達者な団員が、捻り鉢巻に半天、股引き白足袋で寒風吹きすさぶ中、梯子の頂上で掛け声に合わせて捨て身で行う曲芸は、サーカク並で観衆の見とれる内に十種目の技を披露して次の場所に移動する。江戸時代の火消し組の再来と言われた。田中さんが上手であった。 | |
●書初め | 新年初めて墨で書初め用紙に課題の字を勢いよく書くこと。学校の冬休みの宿題に書初めがあったので、この日親父に叱られ叱られ、巻紙に硯で摺った墨を太い筆で書く。学年別に課題が違う。これが三学期初教室に下げられるのが苦痛。 |
名 勝 | |
摺鉢山 | 泥川神社の裏山に位置して、標高約一二〇メートルでちようど摺鉢を伏せた格好で、富士山のように整った形をしている。頂上には、真樺の大木が一本あり、遠くからでもよく眺望できる特徴的である。蛇行している登山道があり、遠足や、青年学校の山岳船戦などによく登ったものだ。この山の登山口に泊尾神社があった。 |
化石の崖 | 学校より植民地道路を約二〇〇メートル山奥へ進み泊尾川が崖下を削って、山裾を流れている道路の右側に傾斜面十メートル、幅五〇メートルくらいの崖がある。この崖の軟石混じりの石の中には、各種の貝、貝殻の化石が大小いろいろと豊富にあった。その中にはアンモナイトの化石もあったので、研究者がいたら樺太随一の化石採集地になっていたかもしれない。 |
臥牛山 | (別名軍艦山) 泊尾川の原流、樺太山脈の稜線上で泥川の西方約十キロメートルの地点で樺太でも高い方の山(標高約五〇〇メートル)で晴れた日には、泥川市街や、海上からもよく展望できた。その容姿は、まるで軍艦を逆さにしたようであった。西海岸に山越えする時の目標になった。 |
遺 跡 | 国道を古江に行く方向の泊尾橋の右岸川上五〇メートルくらいの地点に、河岸段丘上の竪穴遺跡があり一九三三年(昭和八年)国道新設の時、一九三四年(昭和九年)考古学者であった新岡武彦氏により確認された。オホーツク文化らしい。 |
昭和二年十一月 当時の泥川ー大泊航路 |
樺太廰命令航路(株式會社森田商會) |
佐渡丸一〇〇頓(客室完備)・・・・寄港地、雨龍、菱取、泥川、古江、内砂、孫杖、登、知志内、七江、昆沙讃、能登呂 隔日午前大泊出航 |
度津丸一〇〇頓(鐵船客室完備)・・・寄港地、女麗、長濱、遠淵、内音、赤岩、彌満、札塔 隔日午前大泊出帆 |
森田商會出帆廣告・・・・灣内線、樺太廰命令定期、汽船佐渡丸、六月一、三、五、七、九、十一、十三、十五、十六、十九、二十一、二十三、二十五、二十七、二十九 總頓数一〇〇頓(客室完備)・・・・寄港地、雨龍、菱取、泥川、古江、内砂、孫杖、登、知志内、七江、昆沙讃、能登呂 |
汽船度津丸・・・六月二、四、六、八、十、十二、十四、十六、十八、二十、二十二、二十四、二十六、二十八、三十日 |
總頓数一〇〇頓(鐵船客室完備)・・・寄港地、女麗、長濱、遠淵、内音、赤岩、彌満、札塔 | ||||||||||
東西灣内船客運賃表 株式會社森田商會 | ||||||||||
大泊 | 1,500 | 1,600 | 1,800 | 2,100 | 2,300 | 2,500 | 3,000 | 3,300 | ||
大泊 | 多蘭内 | 500 | 800 | 1,100 | 1,400 | 1,700 | 2,000 | 2,300 | ||
80 | 小田井 | 雨龍 | 600 | 900 | 1,100 | 1,400 | 1,700 | 2,000 | ||
1,000 | 550 | 長濱 | 菱取 | 600 | 900 | 1,100 | 1,400 | 1,700 | ||
1,609 | 1,000 | 550 | 遠淵 | 泥川 | 600 | 800 | 1,100 | 1,400 | ||
2,000 | 1,600 | 1,250 | 550 | 蝶別内音 | 内砂 | 600 | 800 | 1,100 | ||
2,200 | 1,700 | 1,350 | 900 | 500 | 彌満 | 孫杖 | 700 | 900 | ||
2,500 | 1,800 | 1,600 | 1,000 | 900 | 550 | 札塔 | 登 | 800 | ||
2,600 | 2,000 | 1,700 | 1,400 | 1,000 | 700 | 550 | 白岩 | 西能登呂 | ||
3,000 | 2,400 | 2,000 | 1,800 | 1,300 | 900 | 800 | 550 | 近泊 |
樺太日日新聞(大正12年6月1日発行) |
拓けゆく樺太 | |||
作詞・長谷川 しん 作曲・古関裕而 |
編曲・奥山貞吉 歌 ・ 伊藤久男 |
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一、 | オホーツクの海の荒波を わけきて ここに三十年 御稜威の光 いや尊く 思いのつゆはいと深し 「拓けゆく樺太 伸びゆく樺太 われらが住める 幸の島」 |
三、 | 殖産興業日に進み 鉄路も延びて幾百里 往来の船も 足繁く 年に殖えゆく 人の数 |
二、 | 漁れども絶えぬ海の幸 掘れどもつきぬ陸の富 美まし 山河希望もち 富国の資源 野にあふる (くりかえし) |
四、 | 北斗を仰ぐ北の国 拓く使命は誰が負う 起ていざ友よ 手をとりて 共に進まん 勇ましく |
樺太音頭 | |||
ハアー | 作詞・時雨音羽 作曲・佐々 紀 (紅華) |
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一、 | 君と住むなら樺太よ お浜大漁で 魚の山 ハアー 黒いダイヤは 無尽蔵 サテ ヤレコノセ ヤンサノエ ハアーヤンレヤレコノ ヨイヤサアノサー |
八、 | 沖の浅瀬と結ぶ築港 花のふぶきの 本斗町 ハアー 君のなさけで 不凍港 |
二、 | 能登呂岬の燈火の合図 逢って嬉しい 大泊 ハアー つもる話も 千歳湾 (囃 略) |
九、 | 東白浦 落ちる陽の そめて美しい 突阻山 ハアー 真縫 時雨で 元泊 |
三、 | 春のにしんは一の沢 夏はあなたと 富内湖 ハアー 忘れられない 舟遊び |
十、 | 知取街の工場に はこばれて 末はパルプの 丸太さえ ハアー 水にせかれりゃ 浮きしずみ |
四、 | だますその身がだまされて 可愛いお方の首かざり ハアー 泣いちゃいけない 黒ぎつね |
十一、 | 峠 轟く 久春内 あの娘 可愛いや泊居 ハアー 野田街で待つは 梅香温の煙 |
五、 | こころ白樺 鈴谷だけ 君とスキーは豊原の ハアー ペチカ かこんで ローマンス |
十二、 | 敷香 内路は 姉妹 沖の積取船 恋の荷を ハアー 積んでくれぬか あの人へ |
六、 | パルプ工場の 汽笛の音 今日は 落合 栄浜 ハアー あやめ原野は花ざかり |
十三、 | 北緯五十度 敷香ゆえ 幌内川を越します恋のみち ハアー 逢いに来るなら 馴鹿で |
七、 | 手井湖恋しい 真岡まで 港 とろりの油なぎ ハアー 可愛いお方の目もとろり |
十四、 | 街は恵須取 野はみどり 誰になびくか 柳蘭の波 ハアー 見せてやりたい 露天掘り |
新民謡 樺太よいとこ | |||
作詞・平城克郎 補作・北原白秋 |
作曲・大村能章 唄 ・ 音 丸 |
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一、 | 間宮海峡は 朝凪ぎ夜凪ぎ 沖の漁夫衆の かけ声きけば 群来の鰊が 五千石 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
四、 | 凍る幌内川 馴鹿橇の 鞭が冷たい オロッコ娘 小田州部落の 粉吹雪 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
二、 | 香る鈴蘭 原野の果は 牧場の羊の 声から暮れて 空に瞬く 七ツ星 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
五、 | 黒い波打つ 宗谷を越えて 北は五十度線 国境に続く 拓け沃野の 宝島 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
三、 | 風に歌うは メノコの恋か 弾くは情の とん五弦琴 想いせつなや 秋の雨 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
六、 | 森の白樺 蝦夷松ばやし 濡れて啼くかよ 朝霧ゆえに 奥蝦夷島の かい狐 ホンニネ ほんに樺太よいところ |
樺太の紋章 |
明治四十四年六月頃、樺太庁第一部長・中川小十郎氏の発意により「近く樺太神社の御造営も完成し、樺太も年々発達していくことでもあり、将来のため樺太を表徴する紋章を決めて置くことが必要と思う」と。 林務課長を主に考案、数種の紋章が提出された。会議の結果、「三葉樺(みつばかば)」が採用され、一般に公表された。 この紋章は、「樺太」ということを現わすために、「樺の葉と果実、および他の線」とを組合せて「太」の字に意匠された。 まず、「太」●●●の字のようにだんだん変形してその縦棒に「樺の葉」をつけて●のようにし、そのまた左右の棒を「樺の果実」に変形させ●の形にした。 これを三個組合せ、その共通の果実の方は三個に止めてある。中心に黒点のない紋章は間違っており、「樺大」となり「樺太」とはならない。必ず、中心に”黒点”を現すころを忘れてはならない。 この紋章は、官幣大社・樺太神社、樺太庁で使用され、樺太庁立の各中学校などでも校章として図案化されていた。 注)●は図形なので打ち込めませんでした。 |