第三篇 泥川の概況
 第五章  交通機関その他                      

 一 交通の部

 <夏期>
  ●海  上 
    明治三十八年(一九〇五)~大正三年(一九一〇)白川漁場、藤田漁場=自力による交通
    大正四年~大正八年=帆船旭丸による運行
    (船名)鷹丸、厚田丸、秋田丸、松島丸
    *鷹丸は大正十三年沈没 *厚田丸は鉄船でジーゼル機関
    航路 大泊~泥川は一日一往復
      往路は、大泊から生活物資を積んでくる。復路は、泥川から生産物を積んでいく
        *木材、鰊粕、鱒、汐鱒等大量にあるものは、直接海上取引が、特別チャーターした漁業組合専用舟を利用
 船は貨客船で大泊まで出る場合は、船酔いのしない人のみ利用、病人も主に利用した。他は、あ陸上を海岸沿いに歩く。雨龍まで六里、ここからバスに乗って留多加へ行き、留多加から汽車で大泊や、豊原市へと出ていく。(昭和八年まで)もちろん、馬を利用することも多い。
  ●陸  上
    昭和八年までは、国道がなかったので上記の方法で陸上交通が行われていたが、昭和九年から国道が貫通したので、ただちに乗合自動車が一日二往復することになり急に便利になった。
 緊急の場合は、特別ハイヤーを頼むこともあり、輸送は、海陸両用で時代に併せて行われた。

 <冬期>
  ●海上 湾内一体に冬期間氷が張る恐れがあるので(また、流氷もある)十二月中旬頃までに、部落民全戸の生活物資を運び終える。
 漁家は組合との関係もあり、米、味噌、醤油、油、灯油等主要物資は四月の海上航路の再開まで貯蔵する。
 家族の多いところでは、米(六〇kg)十俵、餅米二俵といま思うと驚くほど買い込む。他の物資は雑貨店が越冬用として準備する。(以上大別したが、地元商店利用者が大半を占める)船より陸上への荷揚げ作業は艀で行う。業者は、藤田、高梨両海草店。    
  ●陸上 十一月下旬より根雪になれば、交通が不能となるので、自動車はストップし、来春四月中旬まで車による都会との交流は出来なかった。
 代替は、箱型の枠の中に布団を入れ湯タンポ等で暖房した、客馬車と言われる交通機関を利用して三時間程度かけて目的地まで行くのである。従ってこの客馬車は急用の時のみ利用された。
 商売にした人もあるが、自家用でもした人もある。
 国道が出来るまでは、夏と同様に海岸線を干潮や満潮を確認して雨龍まで歩く。この困難さで行き倒れになって凍死する人も出た。
 農村地帯への定期便はなく、徒歩か馬を利用しての交通で、浜市街の南端より幅四、五メートル位の泥川植民地道路が、樺太庁より大正六年頃に開通され、終点八km位あった。(一kmの地点に学校があった)
 農家は、この道路沿いに点在し、主に四km~八kmの泊尾川の支流の多い平坦地に集中していた。夏冬ともに人馬で有効な手段で交易を行い、また、通学もしていた。


 二 通信の部
  ・泥川郵便局開設 大正十三年十二月一日
  ・開設者 中村 辰雄
  ・場所 泥川市街第二段丘上の南側端
  *昭和六年より、三〇〇メートル農村寄り、元松原医院を改造して、局の営業をする。
  ・職員 当初は三名、後五名となる。内勤は局長以下、電信、郵便、為替と三人態勢、ここで教育された後、豊原市の本局に転任したものも多い。
  ・業務 小包郵便、為替、貯金、簡易保険、電話(局内ボックス)
  ・郵便輸送 雨龍より陸路人間が行嚢を背負って配送、昭和九年までは、この方法で夏冬とも行う。死にもの狂いの重労働であった。海上輸送もあった。
  ・配達 毎日配達員二人
  ・ 公衆電話 泥川唯一の部落外との通信機関。急を要する電報以外は、郵便局へ行って電話をかける。料金が高いので、重要かつ必要以上止むを得ないとき以外はあまり使用せず。
  ・官公署
  ・学校 校長住宅は校舎に付属。教員住宅は浜市街第二段丘の北寄り。単身赴任者は借家を利用。
  ・巡査駐在所 浜市街第二段丘(坂の上)
  ・林務駐在所 元は第二段丘(鉄板倉庫上段)新は通学道路南側、郵便局の山の方隣。
  ・水産物検査駐在所 鉄板倉庫付随南側。
  ・郵便局 元は浜市街第二段丘南端で、通学道路南側消防番屋奥地。新は浜市街より通学道路約三〇〇メートル学校より南側元松原病院の跡

 三 神社・お寺
  ●泥川神社
   元は学校の敷地内でグランド西側にあった。昭和八年摺鉢山麓の開拓道路より、二〇〇メートルの参道を付けそこに遷宮した。八月二〇日本祭、宵宮祭、後祭、氏子は部落全員。
 <祭行事> 青年団中心に行う。
 宵宮祭から参道沿いに幟と灯篭を適所に立てて賑やかにし、所々に夜店、出店も出て子供たちが小遣いを自由に使える楽しみがあった。
 ちなみに、小遣いの額は、昭和十年頃で一銭から五〇銭であった。一銭は赤銅貨、五銭は穴の開いた白銅貨、十銭は五銭よりも大きいだけ。五〇銭は穴の開いた銀貨で、五〇銭を貰えるのは裕福な家庭であった。
 その頃は、一銭で口の中に入らない位の大きい飴玉一ケ、小さいのだと三ケ買えた。十銭で大福餅十ケが薄皮に包んで入っていた。ピストル等は五銭もあれば買えた。
  ●幟、灯篭は通学路まで延び、その上浜市街の中央道路へも立つ。
 また、各家庭の軒先には、青竹を一メートル位に切って、薄く割った物に、色付きの紙で桜の花を型どり、この割竹に五、六枚糊付けして華やかにお祭り気分を煽る。
 もちろん、各家庭では餅をついたり、赤飯を炊いたりして部落総出のお祭り行事となる。神社の方は宵宮祭として、興業物があればこの見物をし、無いときには青年団中心の演芸会等。
  ●本祭り 興業行列(浜市街まで往復)、子供・青年・大人相撲、剣道、宝探し等
  ●後祭り 跡片つけが主でお祭りの名残を惜しむ。
   ※農村の鎮守の森は上記に順ずるが、子供相撲の賞品は、カボチャ、イモ、大根の農産物が多く、試合の後これを担いで二キロメートル以上の道を帰るのが大変であった。
   ※浜市街の豊受稲荷の祭典も泥川神社の祭典にほぼ同じ。
  ●お寺 門徒寺(岩崎)、禅宗寺(浄土寺) 大正末期~昭和初期まで、日曜学校、甘茶祭等もあった。

 四 開村当時の有志 ※大正十三年の樺太日日新聞より
            磯 前 芳 次 郎 君 (能登呂村大字泊尾)
  磯前君は泊尾の有志家として人皆君の名聲を湛よ蓋し君の護巌なる性格は今日の効
果をもたらしたるものか茨城の産。明治二十四年一月廿日を以って鹿島郡中野村字荒野
に生まる。父を為吉と言ひ君は其の次男なり。家は代々商を業とし宗教は累代眞宗に歸
依す。幼沖郷里に普通學を修め父業を輔け精勵怠りなく出藍の稱を受け前途有望を以
って嘱自せらる明治四十年樺太江ノ浦に於ける漁業を經営し四十二年北海道濱頓別に
赴き大正五年迄で居住業に勵努したるも志に副はざるものあり仝年再び樺太に轉じ雨
龍にて越年し翌六年泊尾に出て大正九年まで漁業に従ひ同春より米穀雑貨を始め爾来想
いを事業の擴張に致し孜々としてはげみ營々として努め徐ろに其の歩を進め着々とし
て穏健なる發展をなし次いで樺太廳指定商となり今日に至れり、君又沈着の態度護巌
の言行にて其の身を持し尊静以って其の徳を養ふ敢て卓厲風發の鋒釯を現さずその
温醇含蓄の氣風は自ら後進の敬愛を増さしむる所である。

          渡 邊 元 治 郎 君
              人生の行路崎嶇多し山あり河あり峯あり、谷あり、忽ちに
             して疾風迅忽ちにして雷旦を以って夕■を潤るべからざるもの
             あり此の間に處して能く機官を誤らず勝利の月桂冠を■ち
             得るもの果たして幾何かある。君は新潟縣頚城郡潟町村小舟
             津濱の人、庄造氏の三男にして明治十九年五月二十三日を
以って生る君は元来興業が自己の素質に合致したる■業なるを看破し早くも身を斯界に
投じ二十七歳まで梨園に立ちしが後ち退いて海産商に従事したるも志に合わざる所あ
り大泊に於いて旗亭紀の園家を開店大正十年十二月廿日石狩丸をチャーターして物資
を送り新に家屋を新築し紀の園家支店と稍し榮業を繼續しつゝあり而して君は泊尾に
於ける熱心なる有志家なり、公共事業奔走家として一人君の名を知らざるはなしと云
ふも敢て過言にあらざるは各人の夙に認識する所なり。資性剛健にして其の所信を行
ふや宛然快刀亂麻を斷つの概念あり。

           鶯 澤 直 人 君
 君は泊尾小學校長として命名あるの士泊尾住民の君の精勱を多なりとして一人信頼
                 せざるなし君は宮城縣の人にして明治十九年十月廿五日黒
                 河郡大谷村字中村に生る。父を礎治母をユキヱと云ひ君は
                 その次男なり晴れて鶯澤家の女婿になり、將來育英の事
                 業に精勵せんとして大正六年私立樺太泊尾小學校長として
                 赴任次いで公立となり校舎の完全を得今又内容の充實に腐
心しつゝあり。大正七年二月率先して泊尾青年團の創立に奔走し青年團長たる外昨十
一年學制領布紀念をトして卒業女性を會員とする如水會の設立を決行し仝會々長た
り、資性温厚謹巖居村公共事業の手を煩はすもの多く趣味として運動を好む外時に書斎
を愛すと聞く。

           太 田 定 衞 君
 君は青森縣の人にして明治十五年七月一日北津輕郡小泊村七十四に生る。父を忠兵
衛と云ひ君はその長男なり。父は理髪業を榮み宗教は累代禪宗に歸依す。君一阪邑に
生るゝと雖も資性温厚つねに進取力に富む君に漁業に意あり一意専心斯業を精励し琢
磨健闘すること十数年の久しきに及ぶ、茲に於いてか軍獨斯業を開始せんと明治四十
                 三年樺太に出て鉢子内に於いて魚業に従事し大正四年泊尾
                 に点轉字小廻業を始め爾來益々奮勵努力事當り質直を標榜
                 し漸次家産を興しつゝありたるも大正五年不幸小廻二隻を
                 難破し續いて翌年火山の見舞の所となりて類焼の厄に遭ひ
                 窮境に淪まんとしたる君の意氣は此の障害に墔挫する事
なく更に一段の健努をつゞけ為に大正十一年には二廥の旅館を建築し漸進的に榮業
を系經榮しつゝあり。君は又部落評議議員に推されたる事あり現在衛生副長たり挿入寫眞
は長女貞子君なり。

           大 澤 岩 吉 君
 君は青森縣の人にして明治元年二月三日北津輕郡小泊村に生る(父)を助右衛門母をソ
デと云ひ君はその次男なり、家は世々木材業を營み宗教は累代浄土宗に歸依す幼少よ
り頴敏の聞え高く夙に普通學を郷里に修了し父を助けて家に在りしが鴻志黙す可らざ
る物あり北海道に出て風呂屋を營みしも年歯未だ若冠にして世故に長せず經驗に富ま
ず况んや紛糾せる競争場埋に立ちて克く過誤なきを保せむや終にその志を伸ぶるを得
ず利尻に於いて漁業に従事し次いで大正七年樺太に轉じ四月二十九日泊尾に住し孜々
として勉勵せるも祝融の見舞ふ所となり艱難の深底に陥入せんとするも只管家運の挽
回に努力し大正八年より小規模に造林業を始め遂に今日の殷盛を徠すに至れり。君資
性温厚にして篤實頭腦明敏にして緻密事に當つて裁斷流るゝが如く如何なる難事も敢
て辭せざるの慨あり。現在部落世話係、衛生組長に推され今その任にあり。

           藤 田 金 次 郞 君
                君は青森縣の人にして明治十九年一月十七日北津輕郡小
                泊村に生る。幼沖藤田清八氏の養子となり三歳の時養父と
                共に北海道美國に轉村普通教育を修め利尻へ父と共に毎年
                出張して漁撈に從事すること十有八年其の間身命を賭して奮
                闘したるも種々の關係上到底志を伸ぶる能はざるを覺り斷
然として志を立て分家して樺太に出て初子内にて牧場及び魚場を經營したるも業績の
見るべきものなく將夾泥川の有望なるを想察し直ちに移轉し漁業を中止し物品販賣業
を始め続いて官行事行の開始さるゝや多數人夫及び事業師の出入繁頻なる可きを窺知
し旅館を併營し勤勉最も務む事の成否は元氣の盛衰に由るとは西哲の敢なり質に然り
君の元氣横溢なる困難に逢ふて屈せず不幸に際して曉まず勇往邁進その目的を達せず
んば止まざるの特性を有するも近時眼疾の為意氣梢々消沈の盛なきにあらねど何れ
又以前の如き勇躍を為すや明かなり、現時小學校會計たり。

          寺 田 正 幸 君
 忍耐と謹勉とは能く人をして自己の運命を開拓し最後の功を成さしむるに至るは人
の既に會得する所而して君の如き此の論旨に近きと云ふを得べし、君は石川縣の人に
して明治三十六年一月二十七日石川郡出城村字平木に生る。父を考恭と云ひ君はその
長男なり。家は商業を業とし宗教は西本願寺に歸依す君は郷里に普通學を修むや將
来實業家たらんとして大阪に出て大雑貨商に須臾奉公せしが家事の都合止むべからざ
るものあり大正九年初春歸國し両親と共に樺太にわたり父の帷幄に参し漁業商業を手
傅ひ父業をして更に一曾光輝あるものたらしめんと努力しつゝあり、君品行方正夙に
居村に於ける模範青年として知らる。現に青年團幹事たり、君が巌父も又泊尾に於け
る元老の一人にして屢々公職に推され部落の為にはタイムをいとはず貢献すると聞
く。

          佐 藤 榮 三 郎 君
               君は福島縣の人にして明治三十三年十月二十六日伊達郡
              上保原村に生る。父を卯吉母をキヌと云ひ君はその長男な
              り家は世々農商商業を營み宗教は累代真言宗に歸依す。稚
              幼功郷里普通學を修めたり然れ共勇氣勃々活潑に富める君
              の氣性は生涯寒村に歳月を送るの頗る不申斐なきを愧ぢ十
五歳にして兩親と共に留多加に移住し農業の目的にて努力したるも翌年雨龍に轉じ耕
耘に従事したりしも幾多の艱難火災の辛苦は君の行路を遮りその成功を妨げんとせし
事幾許なりしやを知らず。蓋し天は君の早く父を失ひたるを憐み君をして將来有為の
人物たらしめんと殊更に此辛酸を嘗しむ諺に曰く困難より得たる智識は黄金より尊く
困難に優れる良師なしと斯くして好く奮闘したる君は大正十一年春より百貨店をはじ
め現在侵々呼として發展のプロセスにあり君は亦若齡ににず火防伍長、部落世話係青
年團幹事長に推され能くその任を全ふしつゝあり。

          菅 生 文 輔 君
 君は秋田縣の人にして明治十六年七月十六日秋田郡南磯村女川に生る。父を盆則と
云ひ君はその長男なり。世々漁業を營に宗教は累代真善禪宗に歸依す。父は君が十二歳の
時逝かれ母堂の手に依りて成育せられたりと聞く君家庭の関係上一層速やかに獨立の機
運を捕へざるべかれざるを覺り一家の重責を双肩に負ひ孜々として獨力健努し窘窮よ
り脱しつゝあしが時に君思へらく區々たる小業何するものぞ男児志を為すは新天地に
ありと大正大正六年漁業を目的に渡樺富内に於いて漁撈に從事したるも志と違ひ失敗に歸
す止むなく一度國に戻り再び泊(尾)に轉じて着實に穏健に自力を以って奮闘努力の効
果空しからず部落世話係に推され次いで消防組長、漁業總代、部落總代に擧げられる。
大正十一年泊尾發展の氣運にあるを察知し七月旅館を開業し益々發展の道程にあり。
君人となり剛毅豁達事にして不撓不屈飽く迄初志を貫徹せずんば止まざるの摡あり
と云ふ。

 ※赤字は記事の間違いと思われる所、■はコーピーなので字が潰れて読めない所

 五 各種写真集   

昭和2年9月21日 泥川市街

昭和2年9月20日 泥川の水稲

泥川の蕗の高さ

蕗の葉を番傘と比較

鰊漁風景(1)

鰊漁風景(2)

鰊漁風景(3)

木材搬出風景(1)

木材搬出風景(2)

(昭和4年頃) 泥川消防団

<昭和18年頃> 鉢子内 造林事業所の人々

公設能登呂消防組第二部

公設能登呂消防組第二部

泥川林野消防組合

樺太廳消防巡視

コンクリート橋と郵便局長

 第六章  泥川の住民一覧  
    省略                    
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