第四章 泥川の産業 |
一 水産業 ●魚場の由来 明治三十八年南樺太が日本の領土となった時から泥川鉢子内浜に青森小泊りの漁家藤田清八という人が、春鰊を捕るだけの番屋を造り、出稼ぎ方式で開業したのが始まりである。 後、毎年漁をしているうちに、裏山に牧場などを経営するなど手を広げ、雇人も定住するようになり、鉢子内浜に小さな集落が出来た。 大正二年、太田定衛が泥川浜に家を建てた当時は、未開の地で家は無く一番乗りだったが、以来ぞくぞくと増え、泥川浜で漁業を営む人が増えたため、自然に他の海産物も捕るようになる。 大正四年から七年にかけて、大泊や孫杖の方からホタテやカニ等を捕りに来る者が出始め、カニ工場が建てられた。原料が豊富だったので工場は繁盛し、女工になる住民がまだ少なかったので、経営者は働き手を大泊方面から連れてきた。 以来、鰊、鮭、ホタテ、ホッキ、チカ、キュウリ、鰈、鯖、鰯、海老、藤子、昆布等年中水揚げがあるので、漁業者は増え続け、四〇戸位の漁業組合員が能登呂漁協に入る。 しかし、昭和十年より鰊漁が不漁となり十八年まで続く。この間、持ちこたえられず、組合を離れるもの、引越しする者があり、二十五戸位になり海岸線もさびれていく。 昭和十年から十八年迄の不漁中、鰊・鮭以外の水産物で営業を続けていたものは待望の鰊が、昭和十九年春四月に突然雪のまだ残っている泥川の沖合いに、水しぶきと、うなり声を立てながら押し寄せ、アッと言う間に群来、海一面が真っ白になる。 そして、いきを吹き返した鰊場は、翌年の二十年も続くことになるが、八月の敗戦で希望を残しながら終りを告げる。 ●鰊場の状況 他の記事にあるようにヤン衆が来て準備OKの頃、四月下旬~五月上旬にかけて判で押したように鰊の群来がある。捕獲の方法としては、建て網から書く。(別記事にある) 一〇〇メートル~二〇〇メートルの沖合いに、錨で固定した胴網を建てる。そこから波打ち際まで手網を曳く(魚群を胴網の方へ誘導する海の中の垣根)、鰊は夕方から海岸に押し寄せ、産卵を終え沖に戻るので、夕方から屋形船等でヤン衆が船で夜中の網起こしの準備をして出かける。また、枠船は反対側の方に係留する。 やがて、夜に入って魚群がくると、船頭から合図がある。まごまごしていると、網の目に鰊が卵を振りかけるので網はムシロの様になってしまうので、一刻の猶予もない。寝ているときは飛び起きて、網起こしの歌に合わせてヤン衆の力が入る。 胴網の片方から網を起こしていき、魚群を枠船の方に寄せていき、最後は枠船に詰める。夜中これを繰り返し、何百石かの鰊を海中の網袋の中に確保する。一夜にして千金の値が生まれる。 次の日、朝から休む間もなく鰊の沖揚げ(枠船から大きいタモで汲み上げる)が始まる。鰊を船縁の水面すれすれまで満杯に積んで、陸揚げをする。海辺から馬車か、人力のモッコで納屋まで運ぶ。何百石(一石は三、〇〇〇匹)ものニシンを昼夜兼行でやらなければならない。 鰊漁が始まると、一家は勿論、学校は臨時の休校となり、部落総出の沖揚げは休む間もなく続けられる。腹ごしらえは、立ち喰いとなるため食事は食べやすく考えられて、握り飯に、キナ粉や、醤油焼きの味付けをして、漁師独特の長方形のオヒツに何箱も用意をする。この仕事も女の手を総動員して、まるで、火事場の炊出しみないなものであった。 オヤツの主なものは、ラッカ糖、色とりどりの色彩のあるラッカ糖が大きな袋に入って浜辺に握り飯と一緒に並んでいた光景を思い出す。 昼夜兼行の作業の甲斐もなく、運悪く沖揚げ中に荒しに遭うと、残りは捨て物となり大波にさらわれ、枠網が破れて鰊が浜辺に打ち上げられそれを拾うような仕事もあった。 納屋に山積みされた鰊は、後日、各々の製品に加工されるが、昔は主に輸送の関係もあり、鰊粕になった。 以上は、あたかも戦場のような鰊場風景を記したが、陸の仕事は別の記事となる。 ●帆立て曳き 鰊の不漁が続き、漁業が危機に瀕していたが、泥川の沖合い四キロメートルには帆立で貝が豊富だったので、帆立て貝採り用の桁網業に転ずる漁業家も増えてきた。 帆立て貝採りの漁期は、春から夏中にかけてやられるので安定した漁業となり、収益は少ないが比較的落ち着いた状況の中で、再度、鰊の群来が来る昭和十九年まで続いたのである。 帆立て貝は天然物なので、貝柱が大きく、波打ち際から五〇メートル位の海岸に備え付けられた、かっての、鰊を炊く釜(直径一・五メートル、深さ一・二メートル位の丸いもの)で、殻付きのまま煮立ったお湯(海水を沸かした)の中に入れて、貝の蓋が開くぐらいにして揚げ(半熟)貝柱をむきとる。貝柱は大きいから半分か、三分の一くらいにして、塩加減(水に少し塩を加える)をした仕上げ煮をして、天日で乾燥する。完全乾燥に一週間くらいかけ、水分を充分に取り除いたら、検査を受け、カンナ掛けをした化粧箱(二〇貫入)に入れて発送する。行き先は主に中国で、中国料理の貴重品となるため輸出をしたのである。 <参考> ●泥川で取れた主な海産物 鰊、鰈、鮹、鮃、海豹、鰯、蟹、海月、秋刀魚、鱈、海星、雲丹、鮭、鱒、鯖、蠣、海鼠、鰰、鯨、鮪、帆立貝、北寄貝、白貝、浅利貝、昆布、若布、布海苔、鳥賊、キュウリ、チカ、マメマス、ウグイ、イトウ、カスベ(エイ)、鰍、鷹羽鰈、三郎、アンコ、ガンジ、ドジョウ、鮫、藤子、アサリ、鰻、蛤、山女、岩魚 二 林業=官行造材で大正九年から十二年までが最盛期 ●林業の由来 大正八年頃、豊原支庁管内中里方面より発生した、松毛虫によるトド松、エゾ松の被害は、その後、能登呂半島方面へと蔓延し、泥川の原始林もその被害地域となる。 樺太庁は、速やかにこの被害を喰い止めるため全域に亘り、伐採の方針を決定し、官行事業として取り組むことになる。 大正十年当時、海岸線まで延びていた原始林は、ほとんど皆伐のように伐り取られる。(その痕跡は伐根 となり、国道の上の方にかけて一メートル位の高さで残っていた。スキー場の下から市街地にかけて、平地にもびっしりあった) ●造材の状況 大正十年から、官業事業で一斉に伐採を広範囲に亘り開始する。各方面から下請け造材組もたくさん入る。官業事務所は、太田旅館内に置き、官吏は管理監督に当る。 伐採は、主に冬季間に行い、大勢の杣夫により、手鋸で用材用として長尺に切断し、これを、馬搬により泊尾川、鉢子内川の支流の河川に山積みされる。 受け入れの終わった大量の丸太は、やがて来る春の雪解けを待つ。そして、猫柳の芽もほころび、陽当たりの良い場所にフキノトウが芽を出す頃、前の年から設備してあった堤に川水を貯える作業が始まる。 この、小型ダムともいえる網場に水を満たして、周辺の雪も消え、川水が音を立てて流れ出す頃、一挙にこのダムを崩すのである。 網場の上部に水とともに丸太が満たんになる。この頃合を見計らって堤を切るのが、流送先の一番危険にして難関突破の瞬間でもある。 何万石ともいえる丸太は、堤を切って一挙に川下に流れる。この丸太を順調に流送するのが、長年鍛えられた流送夫の仕事であった。この丸太乗りこそ今様サーカスと同じで、混み合う丸太渡りをしながら長い鳶で操り川下の本流まで運ぶのである。幾らか熟練しても状況によっては死にもの狂いであったかもしれない。 各支流より運ばれた丸太は、本流で合流し、今度は常時水流が多いので休みなく流送され、河口にある貯木場へと運ばれる。ここでストップして沖合いの積み取り船に筏として河口から引き出され、船積みされて輸出業者に渡される。 その数がどれくらいかは、文献がないのではっきりしたことは判らないが、太田さんの証言によれば大正十三年に一〇〇万石出荷の記念祝賀会が泥川の市街で行われたそうだから、今時は想像し難い数量かも知れない。 虫害木の一掃も終り、官業事業も切上げ、その後も残木整理のため個人の造材業者が入ったというから全部の出荷量は計り知れないものがあったと思う。 一五〇〇トン級もあったと思われる大型積み取り船が、泥川の沖に並ぶ様は、泥川時代の最盛期であった。 この時の大写真集が、関係者の家にあったのだが引き揚げの時に皆捨てて来たのが残念でならない。 ●木材景気に裏話 樺太進出の事業家は、一獲千金の山師達が多く、短期に大儲けを夢みていたので泥川へ入った組もその例にもれない。例えば、造材は払い下げの調査木だけなのに、それ以外の木を伐ると盗伐になるので、全部伐り終わった後、春先、火を放って山火事を起こし(これが、ともすれば越冬山火事になる)伐根調査を出来ないようにして証拠隠滅を図ったらし。 したがって、役人をごまかして、木代金の払いはない大量の木材を金にすることができた。時には、役人と組むこともあったらしい。この手法は今も昔も変わらない。それに働く人は、「樺太ジャコ」と呼ばれる、その日暮らしの労働者が多かったので、これらの人々を利用してまともに賃金を払わない等、人目を盗んでぼろい儲けを企んだ雇い主もあった。 また、この労働者達(樺太ジャコ)は一か月働いて勘定になると、その金を握って二、三日遊女と宿を借り切りで遊ぶ。法律で認められた遊郭はこの人々が絶好のお客であった。 太田さだの証言によれば、材木最盛期には、泥川にも遊女七,八人を雇う料理屋が五軒もあったという。 働き人は、月に一度山を下っては、この一時の楽しみに耽っるのである。ちなみに、この様子を戯れ歌として、杣夫の間に流行した次に歌を記す。 銀座良いとこ 怖いとこ 白粉つけて べにつけて 尾のない狐が 出るそうな 俺も二、三度騙された 参考 *林野火防組合 ・創立年月日 昭和五年三月二十五日 ・面 積 一、一五一、五五〇ヘクタール ・認可年月日 昭和九年一月四日 ・組合員数 一一二名 ・区域戸数 一一九戸 ・組 合 長 太田 定衛 ・警防設備概要 器具置小屋一、喫煙休憩所六、警告塔二、警告板木三、腰鋸十、鎌十、水筒十 *山火事消防隊 ・分隊数 三 ・隊員数 五〇 ・隊長 中村 辰雄 ・山火警防功労者表彰 ・樺太長官賞 昭和七年 太田 定衛 昭和九年 中村 辰雄 三 農業 樺太庁行政により、能登呂村管内には七箇所の植民地を設けてあったが、そのうちでも泥川植民地は大きな方だった。泊尾川の上流地帯は支流が多かったので、本流との合流地点は平坦地が形成されていた。沖積土が地味を肥し農耕地としてはまあまあ良好な方だったが、山間で沢地が多く広大な農地を所有するほど条件は良くなかった。 地理的悪条件は開拓者の入植を遅らせたが、植民地政策上、基幹道路(泥川植民地)は市街地より奥地へ八キロ延びていた。 樺太の農耕適地に点在する平野地帯とは異なり、平地面積が少なかったため内地方面からの集団入植は不可能だった。従って人伝えに個々の入植者が大正初期よりぼつぼつ入り込み、自力で開墾、自給自足の態勢を築くものが出てきた。 土地は天然の肥沃地で、肥料は一切使用しなくても、じゃがいも等は平年作でも反収五〇俵位はあったことと思う。 大正九年頃より泊尾川流域一帯、特に二キロ地点、または二股から奥地にかけて自然林の伐採が盛んとなり、うっそうたる密林は次々と切り出され農耕条件を徐々に有利としていった。 大正九年から十三年まで泥川の官業造材事業は地元に未曾有の好景気をもたらし、働き人がぞくぞくと入り込んできた。 冬場に伐採され山裾の川辺に山積みされた大量の丸太は、春の雪解けの水量を待つ。頃合を見計らって堤が切られ流送人夫の腕の見せどころとなる。 各線の支流、本流との交差する所が後ほど開墾の適地に選ばれることになる。流送に関係した人々が毎日の仕事上、その他の状況に詳しかったので官業事業が切り上げられ、働く場所が少なくなる大正十三年以降開拓農民として独立して農業をするものが多くなってきた。 このようにして農民の多くは元造材事業所で働いていた。そして特に流送に従事していた人が多いことになる。 この頃から農家も急激に増え出して農村の集落地帯も形成され、部落活動も始まって行く。最盛期は約四〇戸位になり人々も二〇〇人を超え小学校児童・生徒は徐々に増え出したので、一里(三・七五キロ)から二里(七・五キロ)の通学道路を熊の被害から避けるため集団登下校した。 しかし必ずしも条件は一朝にして自立農業経営の軌道に乗ることは困難だった。人力と馬力で耕せる農地には限界があることと、交通が不便だったので、早場に生産される作物が販売網に乗せることが出来ず自家用生産にととまることが多かった。蕎麦類、カボチャ、大根、ビート等米と小豆以外は北海道の産物と同様の良質な物が収穫された。でもこの中から商品として売り上げられて現金として収入になることはほんの一部であり、その他は皆自家消費用だった。 そんな理由で、日常生活の食料の主力が麦、蕎麦、じゃがいも、カボチャ等で食べることには事欠かなかいが、現金収入は少なく、自分で作って自分で食べるいわゆる耐乏生活時代であり、安定農業には暫く時間がかかることになる。 家畜は、牛、馬、鶏等で何処の家でも必ず飼っていたし、また、前に記したように、家畜の飼料には事欠かなかったので、飼育は順調に進み特に子供の仕事としても良かった。 生育した物は栄養源となり耐乏生活時代もあったが、子供たちを始め体力作りには素晴らしいものがあった。 官業事業引き上げ後は、民間による造材事業が暫く続いたので、農家の男達は、農閑期にはここで働き現金収入を確保することが出来た。 また、冬期間は、馬で働く出稼ぎもあり、生活の安定に年中休む暇はなかった。 以上のようだったが、艱難辛苦して泥川農業を一人ひとりの努力に依って成功されるべく、汗水を流すこと十数年、悪条件と生産高は予想したようにはならなかった。 昭和十二年、日中戦争突入後は樺太庁の施策も、戦時体制重点主義になり、軍需用燃料確保の必要性もあり、西海岸塔路地方の石炭採掘に泥川の農家の人々も募集対象となりだした。そのため農家の人々は将来性を考え、好景気地方の西海岸地方へ移動する者も出始め、やがて昭和十六年太平洋戦争が始まったら、若いものは戦争にとられるなどのこともあり、一人減り、二人減りして農村人口は半減することになる。残った農家は家畜生産(牛、馬)主力の経営改善を行い、酪農では牛乳の販売で付加価値を高めるため共同経営によるバター工場の建設をしたものの成功するまでに至らず、操業半ばにして昭和二〇年の敗戦の憂き目にあうことになった。 開拓の鍬を下ろしてより約二〇有余年、汗と血は水泡に帰してすべての夢は消え失せてしまったのである。 |