第二章 明治時代から敗戦までと地誌、気象 |
○明治時代 明治元年(一八六八年)江戸城が開場されて皇居となり、江戸は東京と改名された。同年、岡本監輔が樺太の事務一切を委され、農工民二百余人を率い久春古丹に公議所を設立する。その翌年、それまで北蝦夷と呼んでいたのを正式に樺太と改めた。明治三年(一八七〇年)、政府は樺太に開拓史を置き、黒田清隆を開拓次官としたが、翌年北海道と合併し、久春古丹に公議所を開拓使樺太支庁とした。その当時、樺太においてはロシア軍が函泊を占拠するなど紛争が相次いだ。 明治五年、副島種臣がロシアと樺太買収の会談をするも不調に終わった。明治六年に黒田清隆は、樺太軽視説を唱え、樺太は無価値である旨政府に報告した。その当時は、日本国も維新の騒乱で樺太に対する防備も手薄であったことから、ロシアの横暴はその極に達し、住民の安全も守れない状態となり、遂に日本政府は黒田次官の「樺太放棄論」を採用し、明治八年(一八七五年)五月「千島・樺太交換条約」を締結し、樺太を放棄したのである。 かくして樺太を領有したロシアは、自由移民による農耕、流刑囚人による道路建設・石炭採掘・開墾等を進め、明治三十五年頃には、村落一三六カ所・人口三万二千人(内自由移民一万人)・農耕地・牛馬等も相当増加した。道路は太泊~亜港までの縦貫道路とその支線もある程度建設された。これらは大部分流刑囚人を使ったと言われている。 ロシアはその後、さらに満州・朝鮮をも領有することを企画し、清を武力で威圧して旅順を確保したり、朝鮮へ侵攻するなど日本の権益にも重大な影響を及ぼすにいたり、明治三十七年日露戦争が勃発した。旅順・奉天・日本海等の戦いに大勝した日本は、明治三十八年七月八日樺太の女麗に、七月二十四日北樺太にそれぞれ上陸してロシアと戦い、同三十一日ロ軍が降伏した。八月一日全島に軍政が施行され、続いて八月二十八日、北樺太のアレキサンドロフスクに樺太民政署が設置され、熊谷喜一郎長官が赴任した。しかし、九月五日のポーツマス条約で、北緯五十度以南が日本に割譲されることになり、民政署は南渓町に移され支署が豊原に置かれた。三十年ぶりに南樺太は日本に復帰したのである。 ○樺太の施政と敗戦 明治三十八年(一九〇五年)九月から昭和二十年八月の四十年間、樺太は日本の施政下にあったが、政府も・国家も・そしてまた我々の父祖も・ここを永久の国土と信じて、墳墓の地を定め、移住を行ったのである。そうして酷寒のなか不毛に挑み・心血を注いで開拓を進め・産業を振興し・各種の制度を整えて文教を広め、それまでの内地に劣ることのない理想郷に向けての、近代的な樺太を築きあげたのである。 しかし、昭和十六年十二月以来の太平洋戦争が、昭和二十年に至って日本の敗色濃厚となるに及んで、ロシアは日本との「相互不可侵条約」(昭和二十一年四月まで有効)を同年四月一方的に破棄した。そうして、米・英・支三国のポツダム宣言を奇貨として、昭和二十年八月九日未明、北樺太から国境を越えて南樺太への侵攻を開始した。防備が手薄い日本軍は、これを撃退できる状態ではなかったが、島民を挙げての抗戦の体制を進めた。しかし、八月十五日天皇による終戦の詔勅もあって、日本人は降伏することとなった。南樺太はたちまち占領され、逃げる老幼婦女子の惨状は名状すべきもなく、また、真岡等での住民への一方的な攻撃は五百名以上の住民の命を奪い、真岡郵便局の九人の乙女の崇高な殉職、恵須取をはじめ各地での死者の続出、更には白旗を掲げた軍使をも射殺するという非道が各地で見られた。また、いたいけないわが子を道連れに、死をもって日本人の誇りを守り抜いた日本婦人の悲話も各地で起こった。 更に、在留の軍人・警察官・朝野の指導者は根こそぎシベリヤに連行され、長い者は十一年四か月も過酷な労働を強いられ、その間に飢えと寒さに多数の者が死亡したのである。これもまた、人類史上許されない非人道的行為であることは明白である。 昭和二十六年九月、日本は米・英など四十八カ国と対日講和条約を締結したが、ソ連はこれに加わっておらず、ソ連が戦時占領のまま、なんらの国際協定をも経ることなく、南樺太を自国領として支配していることは、国際法に反するとともに世界秩序の維持上許せないことである。 ○樺太の地誌と気象 南樺太(以下樺太という)は、東端の北知床岬は東経一四四度五五分でオホーツク海に面し、西端の鵜城岬は東経一五一度五一分で、日本海に接し、ロシア領の沿海州(元中国領)に対峙している。沿海州と樺太西海岸の距離は、最狭部が約七・四キロメートルで、この間、間宮海峡は冬期は普通凍結する。南端の西能登呂岬は北緯四五度五四分に位し、約四三キロメートルを隔てて北海道宗谷岬に対している。北端は北緯五〇度をもってロシアとの境界とし、国境線は東西約一三一キロメートルで、森林を幅1〇メートルに伐採して林空地をつくり、天体観測地点標識を四か所、中間境界標識十七か所を設けて区画していた。樺太の東西の幅員は、最長が北知床岬~鵜城岬間の一五七キロメートル、最狭部は真縫~久春内間(北緯四八度)の約二七・五キロメートルであった。また南北は西能登呂岬から北緯五〇度まで約四五五・六キロメートルである。 面積は、三万六、〇九〇平方キロメートルで、北海道の約二分の一、九州とほぼ同じである。 樺太の気象はオホーツク海の寒流や(樺太海流)アジア大陸の影響で、世界の同緯度の地域と較べると気温が低かった。ただ西海岸は、対馬海流の影響で比較的温暖で、本斗や真岡は不凍港として知られており、地方によって温度差が大きかった。最寒気は一月、暖気は八月であったが、夏でも三〇度を越すことは稀であった。 冬期は西海岸では十二月に根雪が降り、四月半ばには雪が溶けて、五月から耕作ができる状態になるが、東海岸は寒気が強く雪溶けも十日位は遅かった。また、冬は西海岸は比較的陰雲に覆われて積雪も多く、吹雪の日もおおかった。東海岸は晴朗の日が積雪も少ない。 |