第一篇 樺太の歴史と概要
 第三章 樺太開発の概要

 一 領有当時の状況
  日本によって軍政がひかれた明治三十八年八月頃の樺太は、道路としてやや見るべきものは、大泊から豊原を経て東海岸を北上する幹線とその他僅かで、大部分は森林を伐採して小道を通じている状態であった。幹線道も粗悪・荒廃し、降雨のときは交通途絶が多く、施設改善には創始的な工事が必要の状態であった。
 それに百余の村落跡・一、八八〇町歩にわたる農耕地・牛約二、〇〇〇頭・馬一、〇〇〇頭余りが放置されていた。ロシア人は既に引揚げてほとんど姿はなく、原住民であるアイヌ人が各地に散らばって約一、二五〇人(正確な資料はない)、北部にギリヤーク・オロッコ・山丹人(中国系で黒龍江下流に住んでいる山靻民族)等が僅かに住んでいる程度で、まだまだ大部分の地域が未開の状態であった。
 ロシア人の退去が急であったため、牛馬が放置の状態になっており、樺太民政署においては、日本からの移住者に自由捕獲を許し、半分は無償供与・残りは上納させる処置をとった。しかし、捕獲されなかった牛馬は山野に逃げ込み、冬期に大部分が飢えと寒さで死亡した。

 二 行政組織
  樺太への移住が日本政府によって許可されたのは明治三十八年八月十五日で、それと同時に漁業・農畜産業・商業等に従事する者が移住をはじめ、また行政官らも多数送り込まれた。明治四十年四月一日、内務大臣の指揮監督をうける樺太庁が、それまでの民政署を引き継ぐ形で設置され、初代長官には樺太守備隊司令長官の陸軍少尉楠瀬幸彦(高知県出身)が兼務し、樺太庁は翌四十一年大泊から豊原に移った。その出先機関は昭和十七年には豊原・真岡・恵須取・敷香の四支庁になり警察署は十六署であった。
 樺太の自治体は、大正四年の「樺太の郡及び市町村の編成に関する勅令」によって十七郡・四町・五十八村に区画されたが、これは単なる地理的区画にとどまり、公共事務は部落総代制によって行われていた。同十一年「樺太町村制」が交付され、十六郡・五町・三十二村となり、町村長や評議員が官選で配置された。
 さらに、昭和四年の改正で町村議会議員が住民の直接選挙で選ばれることになった。昭和十二年豊原市が誕生し、一市・十郡・十四町・二十七村(四十二市町村)となった。
 その後昭和十七年には、戦時下の体制整備のため樺太は内地に編入され、国の法規が大部分直接適用されることになった。

 三 人口
 領有当初の明治三十九年末の樺太の人口は一万二、三六一人であった。その後次のように非常な率で増加を見ている。
  大正 五年  六万六、二八〇人(一万四、六二四戸)
  大正十四年 一八万九、〇三六人(三万七、四〇二戸)
  昭和 九年 三一万三、一三〇人(六万一、〇〇九戸)
  昭和十六年 四〇万六、五五七人(七万五、一一七戸)
 昭和十六年の人口を種族別に見ると
  内 地 人   三八万六、〇五八人(七万二、〇五四戸)
  朝 鮮 人     一万九、七六八人(   二、八八三戸)
  ギリヤーク・オロッコ等   四二五人(       九二戸)
  ロシア人など外国人    三〇六人(       八八戸)
となっている。なお、アイヌ人は内地人に含まれており一、二五四人であった。

 四 航路と陸上交通
 明治三十八年八月一日軍政が布かれて、同八月七日、樺太島漁業仮規制・樺太島出入船舶および渡航規制等が交付され、樺太への渡航は一応規制されたが、同八月十五日、日本政府によって樺太への移住が許されてからは、移住用の一般船舶は緩やかに扱われ、集団移住者はチャーター船を用いて渡樺していた。その後、定期的な樺太庁命令船(大礼丸その他)が小樽・函館から樺太の主要港に向けて渡航していた。
 大正十二年に北海道の宗谷線が開通したため、同年の五月一日から稚内~大泊間・稚内~本斗間に連絡船が運航することになり、四月~十一月は毎日1往復・十二月から三月は隔日にそれぞれ運行がはじまった。所要時間は約八時間で、始めのころは壱岐丸・対馬丸高麗丸等が就航し、その後砕氷装置のある亜庭丸(三、二九七トン)・宗谷丸(三、五九三トン)等が就航した。このほかに通信省命令航路があり、函館を基点に小樽・大泊・真岡に寄航していた。古くから移住民になじみであった大礼丸は、大正十二年七月濃霧のため、西能登呂岬沖で木材積取船と衝突して沈没した。また、樺太の沿岸線もあって、東横・西線・湾内線があり、西線は真岡を基点に安別までを往復していた。
 鉄道については、明治三十九年四月豊原に守備隊が駐屯することになり、その軍需物資輸送のため、軍によって南渓町~豊原間四三・三キロメートルの鉄道敷設工事が行われ、施工五五日間で完成、十二月一日開通した。続いて大泊への延長、川上線も大正三年開通した。豊真線八三・八キロメートルは、大正十四年十月着工し、多くの犠牲をはらって昭和三年九月開通した。東海岸の鉄道は、昭和十九年までに上敷香を経て古屯まで開通した。西海岸は本斗~野田間がもっとも早く大正十年の夏開通し、以後順次南北に伸びて、南は内幌・北は久春内まで国鉄が通った。樺太の鉄道七七〇、三キロメートルで、地方鉄道は王子・三井・三菱による敷設が多かった。
 旅客自動車は、国営として本斗~留多加間の本留線・恵須取~内路間の内恵線があり、その他民営は二九路線が運行され、交通の便は相当隅々まで計られていた。

 五 植民地と主要産業、教育
 樺太領有後、直ちに対応したのは、植民と農牧畜・漁業・林業・鉱業の推進である。政府も樺太開拓は、先ず農畜産に従事する定住者を適切に移住させることによって、開発の基礎とする考えであった。そこで当初は、農牧畜適地の調査と区画が行われ、特に鈴谷川・留多加川・内淵川・列丹川・来知志川・の五大流域について基本調査が進められた。樺太の農耕適地は全面積の約十四パーセントと言われているが、適切な移民と農畜産従事者の努力によって、飛躍的な発展を続けた。
 千島樺太交換条約の前から、長い歴史を持つ漁業の振興も重要な課題で、自然的条件を基盤にして、漁業根拠地の選定開発を進め、また魚種に対応した漁法の選定には、漁民のもつ特有の知識を尊重する立場で推進を図った。
 市街地の設定は、移民に伴って自然発生的に形成される地域についての配慮も大切だが、将来の展望に立って、近代的な感覚での検討が必要と判断され、綿密な調査が進められた。そのうえで、場所の選定と宅地の区画配分が行われた。特に豊原を島都として計画推進を図ったのは、非常に先見性に富んでいたと言われている。
 教育は昭和十六年内地の学制改革に順応し、初等教育機関であった小学校は国民学校と改められ学校は二八五校に達していた。中等教育は中学校は明治四十五年五月大泊、大正十四年四月豊原にそれぞれ創立され昭和二年一月に真岡中学が創立された。その後同十五年敷香中学・同十六年恵須取中学が創立され、女学校は大正四年大泊、同五年豊原、同十五年真岡、昭和三年泊居の創立され、その後公立で敷香・恵須取・知取等に創立した。各種の実業学校も次々と創立され、昭和九年七月勅令によって樺太開拓学校(後の農林学校)が小沼に創立され、ほかに本斗水産学校・工業学校・商業学校も各地に創立された。昭和十四年豊原に樺太師範学校が創立され、樺太医学専門学校とともに同十八年文部省直轄の国立専門学校となった。この間青年教育のための青年訓練所ないし青年学校も順次設置された。 
目次へ