第一篇 樺太の歴史と概要
第一章 先史時代から江戸時代まで |
樺太に関するいろいろな資料によると、「先史時代」の樺太には、北方にオロッコ・ギリヤーク人が住み、南方には主にアイヌ人が住んでいた。南樺太には、いたる所に新石器時代(紀元前三〇〇~七五〇〇年)の遺跡があり、縄文式土器・石斧・石槍・骨斧・骨銛等が出ており、また、スズヤ貝塚から出た人骨は、アイヌに似ているというから、南樺太にそれらの遺物を残したのは樺太アイヌの祖先と推定される。なお北樺太での遺物は明らかになっていない。 その頃の樺太支配は、他国人によるとみられる資料は見られないので、住民なかんずくアイヌ人によって行われていたと考えられる。 樺太をめぐる当時の国際的な背景は、沿海州はもちろんのこと、黒龍江北方の山靼地方まですべて支那(以下中国という)の領土であり、周、秦を中心とする満州の諸侯によって支配されていた。樺太への海峡は、冬は凍結して歩いて渡れる状況であったが、中国は樺太は日本の領土という立場をとっていた。中国の周・秦時代(紀元前七七一年~二二一年)の人々の述べたことを蒐めたと伝えられる著書「山海経」には「北倭(日本のこと)は黒龍江口に起こる」と記されており、その根拠は明確ではないが、アイヌ民族は日本人の一部であるという認識に立ち、地理的にも日本の延長と思っていたのではないか。一方樺太の南に接する日本が、当時樺太にどのように係わっていたがは不明であるが、蝦夷地(北海道)から樺太に渡ったアイヌが多数居住していたことは間違いないく、一体的な関係が存在していたと考えられる。 なお、ロシアの関与は、当時全く南下した事実は無く無関係である。 『古代』といわれる中国の唐の時代(西暦六一八~九〇七年)になって、日本は第一回の遣唐使として犬上御田鋤を唐へ派遣(大和時代~西暦六三〇年ー)した。唐の貞観十四年(六四〇年)には、樺太の土人が唐に入貢を行い、以降、樺太は中国から流鬼と呼ばれ、次第に属国視せられるにいたった。 平安時代の元慶三年(八七九年)、渡島(北海道南部)の夷酋多数がアイヌ人三、〇〇〇余人を率い秋田城へ南下した。朝廷は藤原統行を派遣して労饗を行い、その後北海道・樺太にかけて住むアイヌ人は殆ど特別問題もなく、朝廷もこれを顧みることはなかった。 『中世』になって中国は元の時代になり至元元年(一二六四年ー日本の文永元年)、当時古桂と称していた樺太に攻め込んだ。これはアイヌ人等によってときどき領土を侵されるので征討のためであった。元軍は九州の博多へ二回来襲して失敗しているがそれにも拘わらずその後三年連続樺太の骨蘶を攻めたことがあった。いずれもその時期は冬で間宮海峡の氷結期を選んでいる。元は、あるいは北方から日本攻略を考えていたのかもしれない。 逆にその十年後の永仁五年(一二九七年)には、樺太アイヌで骨蘶の屋英(わいん)なる人物が、ギリヤーク人の作った船に乗り、沿海州に渡って乱を起し、また骨蘶の酋長フレンクは北樺太西海岸の果移(カター)から海を渡って攻め込んだが、いずれも元軍に破られた。このような経緯をたどって、樺太の住民は、鎌倉時代の延慶元年(一三〇八年)以来、元に服従したような形態の時期があった。その一方で朝鮮王成宗の五年(文明五年~一四七三年)、朝鮮の禮曹判官申叔舟は「海東諸国記」を著書したが、これには日本の領域を「黒龍江口の北に起こる」と記しており、朝鮮も中国と同じように樺太は日本の領土と認めていたのである。当時朝鮮の学者は、北方に関する知識は非常に正確であったと言われている。 ○樺太は松前藩支配の日本領土に 文明十七年(一四八五年)、樺太の酋長が北海道上国に来て、当時の領主蠣崎信広に、銅雀台の瓦硯を献上して服属の意を表した。これによって、それ以来、樺太は蠣崎家の領有するところとなった。その後信広五代の孫慶広は、天正一八年(一五九〇年)聚落の台で太閤秀吉に会い、豊臣の性を賜って親藩に加えられ、樺太を含む蝦夷地主として待遇された。さらに文禄二年(一五九三年)正月二日秀吉から蝦夷地の支配権を許され、志摩綿(一名つづれの綿~ジットク)を、家康の懇望によりこれを贈った。さらに秀吉の死後、慶長四年(一五九九年)に再び家康に会い、家系図・蝦夷地の地図等を呈上して、以後姓を松前と改め、その後家康から蝦夷地の統治に関する誓書を受けた。このように樺太は、松前藩支配にかかる日本の領土として扱われることが確定した。これらのことは松前藩の年代記である「福山秘府」に詳述されている。 ○幕府の直轄地となる 松前藩は寛永十二年(一六三五年)から藩士を樺太に派遣して調査・検分をさせ、その翌年には甲道庄左衛門が能登呂岬に渡って越年し、同人はその翌年にはタライカ(足香)まで検分した。これが史上に現れた樺太越年の始まりであり、それ以降タライカの名は広く邦人にしられるところとなった。 ○ロシアの進出 ロシアは、一六四三年黒龍江流域へ進出をはじめ、清国の満州軍と戦闘を繰り返し黒龍江北方の地域を獲得してからカムチャッカ・千島・樺太方面へも目を向け始めた。十九世紀の半ばになるとロシアの樺太侵略は武力を伴う強引なものとなり、一八五三年(嘉永元年)樺太最北端のクエクド岬に国旗を揚げ、この付近は露国の領土と宣言した。一八五三年(嘉永六年)には兵を率いて久春古丹に上陸し陣営も築いた。 一八五八年(万延元年)、ロシアは黒龍江一帯に侵攻し、清国との間に「愛琿条約」を結び、その地方を領土とし、更に一八六〇年(万延元年)、清国の内乱に乗じて武力を背景に圧力をかけ、「沿海州専用に関する条約」(北京条約という)を結び、山靼地方・沿海州の全てを領有するにいたった。以後、樺太は沿海州の付属地であるとして、圧力を強め、次々と軍隊を送り込んで樺太略奪を開始したのである。 このような動きの中で、樺太の国境策定交渉も幾度となく行われたが、ロシア側の全島ロシア領の態度は変わらず進展はしなかった。しかし慶応三年(一八六七年)露都における小出大和守らとロシア亜細亜局長の交渉で、これまでの和親条約とほぼ同じような内容の「樺太島仮規則」が暫定的に結ばれた。 |