宗谷岬・宗谷岬平和公園  =宗谷ヒストリーロード=
 日本最北端の地の碑 間宮林蔵の立像 宮沢賢治文学碑 平和祈念碑 旧海軍望楼 宗谷海域海軍戰没者慰靈碑平和の碑 宗谷岬灯台
 <2009年8月26日> =このページは北の探歩訪のページの抜粋です=

 アクセス
 稚内から国道238号線を東に辿ると宗谷岬があり、広場の前に広い駐車場がある。丘の上の「宗谷岬公園」にも駐車場があるが道は急で狭いので注意しながら上って行く。
 国土地理院地図 周辺地図 稚内市役所観光交流課HP
 日本最北端の地の碑
=人物以外の写真をクリックすると大きなサイズになります=
 宗谷岬に向かうと、一番先に目に付いたのが三角形の形をした「日本最北端の地の碑」だった。この形は北極星の一稜をかたどったものらしい。早速、観光客が居なくなったので記念写真を撮す。塔の裏にはNの文字が浮いていた。(丘の上の宗谷岬平和公園から見る宗谷岬は、ただの海岸線に見てしまう)
宗谷岬 最北端の地の碑(大×) Nの文字 望楼から
 間宮林蔵の立像
 立像い近づくと、大小二本差しで武士の装束をしてはいるが、肩に縄索をかけている。弁天島(日本が実効支配している最北端)をバックに視線は樺太を向いて凛々しい姿に見えた。
 台座の裏に回ると酷く掠れてしまった碑文があり、まともに読めない。学生時代に培った山勘をまじえて解読するが、自身はない(誤読の場合はお許しねがいます)。
立像 掠れた碑文
間宮林蔵一八〇八年南西のそよ風にのって
櫓と帆の小舟でこの地から樺太に渡り
苦難の踏査のすえ歴史にその名をとどめる
間宮海峡発見の大事業を成し遂げる
林蔵二十九才のことである
その偉大さと業績をたたえ林蔵生誕
二百年にあたり意義ある出航の向かえるひ
ここに記念碑を建立する
  一九八〇年七月一二日
     稚内市長 浜森辰雄
                    峯光
 宮沢賢治文学碑・平和祈念碑
 車に戻り、丘の上の公園に上がって行き、先ず目に付いたのが宮沢賢治の文学碑だった。碑文は「はだれに 暗く 緑する 宗谷岬の たゞずみと 北はま蒼に うち睡る サガレン島の 東尾や 宮沢賢治詠 東大寺長老 清水公照書」と彫られていた。愛棒がポツリと「樺太」を「サガレン島」って言うんだと、怪訝そうに読み終わる。サガレン島とはロシアの古い呼び名のようだ。
 後に回って、びっくり、「平和記念碑」となっている。長文の碑文の終りには「宗谷要塞重砲連隊宗谷会一同」とある。軍隊の方々も文学を愛されていたと思うと、少し、何故かほっとする。
文学碑
平和記念碑(大×)
   平 和 祈 念 碑
 昭和十六年八月宗谷海峡警備のため
宗谷要塞重砲兵連隊が創設され ク
サンルに司令部 大岬に連隊本部及
第一中 隊 西能登呂に第二中隊 野
寒布に第三中隊 声問に第四中隊が
配置された 我らは部隊要員として
召集され 昭和二十年敗戦の日まで
ある者は妻子と別れ あ る者は青春
を空しくし 寝食を忘れて任務に就
き北辺の護りに励んだ 更に西能登
呂要員は敗戦後もシベリアに抑留の
身となり四年有余の辛苦の日夜を送
った  この間再び故国の土を踏むこ
となく白玉楼中の人となった七名の
僚友の霊に対し深く哀悼し 魂鎮ま
らんことを念ずる
戦後四十年余の歳月は我らに望外の
平和と繁栄をもたらしたが それは
無辜の同胞らの償いのない犠牲の上
に築かれたものであることを肝銘し
不戦平和の祈りと 願いをこめて
この碑を建立する
    昭和六十一年十月吉日
    宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同
 シベリア抑留で、軍人としてではなく罪の無い文人として、多くの方々が亡くなられた史実には全く正義を感じられない。ロシアの真似だけはしてはいけないということか。
 旧海軍望楼
 一際、異彩を放つ建物が目に付く。近づいて見ると「大岬旧海軍望楼」だと言う。螺旋階段が付いていて屋上に上がれる。結構年代を感じる腐植しかかった鉄の階段を上がると、樺太が見えていた。下りて望楼の北側に回り込み、屋上を見上げると、見張り役が目を光らせていた。きっと、軍人の生れ変りなのかの知れないと不思議なキタキツネを見上げる。
望楼 説明板 樺太が見える 望楼の見張り役
 振り返ると、現在、日本が実効支配している最北端の弁天島が見える。望楼を一回りして、次に進む。
稚内市指定文化財第十九号
  史跡 大岬旧海軍望楼
 明治七年、樺太千島交換条約が成立
し、樺太全島はロシア領になりました
が、宗谷海峡における日露の緊張は
高まるばかりでした。当時の日本海軍
はこうした情勢下で、明治三十五年
(一九〇二)宗谷岬に望楼を建設しま
した。この望楼は、宗谷海峡を一望
のもとに見渡せる位置にあり、その形も
船のブリッジを形づくる異色のもので、
石材をコンクリートで固め、いかにも
国境の備えにふさわしい監視所でした。
 建設以来、風雪に耐えて当時のおも
かげを今につたえる貴重な文化財です。
大切にしましょう。
                稚内市
弁天島を望む 南側
屋上 東側
 宗谷海域海軍戰没者慰靈碑
慰霊碑
この碑は、望楼防備隊を含む宗谷防備にあたり殉職した人々の鎮魂のために建てられました。
特に、終戦直前の昭和20年7月、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊航路連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した望楼防備隊所属の「第112号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるため、昭和55年9月に建立されたものです。
※稚内市のHPより抜粋
 平和の碑
 平和の碑の左右にポールがある。何故だろうと、近づいて碑文を見ると日本語と英語で書かれていた。その内容はUSAと日本の関係者が合同で建立したと言う。ポールは星条旗と日の丸を揚げるためのものではと思う。碑文の下には、撃沈された船舶、位置、犠牲者人数などが記されていた。
平和の碑 平和の碑(横から) 撃沈された内容 碑文
        平 和 の 碑
 1943年10月11日 宗谷海峡において5時間に及ぶ日本海軍と
アメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。
 この場所により、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフー
SS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。また、この戦い
より多くの日本人の戦死者が日本海に眠っている。
 この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって
設立されたものである。
 かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和が尽きるこ
とのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊
れることのないよう、献身したい。

        PEACE MEMORIAL
On October 11,1943 the Japanese Navy sank the American
submarine Wahoo SS238 in a five hour air and sea attack.
ship in a two week raid. When the Wahoo was lost it was the
highest scoring submarine in the US Navy. Eighty Americans
sleep in the Soya Strait 12Miles nroth-east of here. Many
Japanes sleep in the Sea of Japan from Wahoo attacks.
This monument was erected by members of the Japanese.
Attack Group and relatives of Americans lying in Wahoo. Old
enemies met as brothers to dedicate that our countries shall
friendship we now enjoy today.
 宗谷岬灯台
 宗谷岬灯台を遠望しながら車に戻る。途中サハリン(旧樺太)43kmの矢印を見上げる。
宗谷岬灯台
 最後に、沖に浮かぶ樺太(サハリン)の島影を見て、公園を後にする。
樺太(サハリン)の島影