猿払電話中継所跡  =オホーツクライン=
     (樺太との電氣通信ゆかりの地)
 <2009年8月26日> =このページは北の探歩訪のページの抜粋です=

 アクセス
 国道238号線を南下し浜猿払に入った漁港の手前に碑が建っている。
 国土地理院地図 周辺地図 
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 浜猿払から海岸線を走り南下しようと、市街地を抜けかかった所に、一寸小振りだが石碑群がある。車を停めて、石碑を見てびっくり、樺太との繋がりがある「猿払電話中継所」跡だった。碑文を読むと昭和9年に東京ー札幌ー豊原間が海底ケーブルで繋がっていたとは、また、驚きだった。次の石碑を見ると「樺太との電氣通信ゆかりの地」の碑だった(裏の碑文は掠れて読み取れず)。最後の石碑には真岡の電話交換手九人の実話が記されていた。地図も載っていて、樺太側のケーブルは大泊郡深海村女麗(プリゴロドノエ)に繋がっていた。
石碑群 中継所跡 電気通信ゆかりの地 説明文
 猿払電話中継所跡
 昭和9年(1934)12月11日、北海道
と樺太を海底ケーブルで結ぶ東京ー札幌ー豊
原間の長距離電話回線が完成し、初めて樺太
と電話が通じるようになりました。
 猿払電話中継所は、この海底ケーブル揚陸
地の重要中継所として、同年11月1日この
地に設置され、以来30年間大きな役割を果
たしてきましたが、終戦後樺太との通話がな
くなり、また札幌ー稚内間マイクロ回線の開
通により、その必要性がなくなり、昭和39
年(1964)9月30日廃所されたもので
あります。
皆さん
 これが最後です
     さようなら
       さようなら

 昭和二十年八月十五日終戦。それから五日後の昭和二十年八月二十日
ソ連軍が樺太(サハリン)真岡上陸を開始しようとした。
その時突如日本軍との戦いが始った。
この日電話交換手である九人の乙女達は窓越しに見る砲弾のさく烈。
戦火と化した真岡の街、刻々と迫る身の危険。もうこれまでと決断、死
の交換台に向い「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
の言葉を残し夢多き若き尊い花の命を絶ち職に殉じた。この思いを繋い
だのが当時電気通信の拠点として重要な役割を果していた「猿払電話
中継所」なのです。

 平成十八年十二月十日
   猿払ライオンズクラブ 二十一代会長 鳥谷部 徹雄
 目の前には実際に使われていた海底ケーブルの5本の標本が展示されていた。その頭には宗谷海峡に布設された海底ケーブルの詳細」が記されていた。その記述によると線の長さは100海里前後で、最後に布設されたのは、1945年6月だった。海岸方向を見ると、ここに埋まっているよと教えているかのように埋設位置を記した石板と標石が見える。標石の前にはマンホールが残っている。マンホールを開けると樺太からの電話の声が聞こえそうに思う。
海底ケーブル ケーブルの内容 ケーブルの埋設位置 標石とマンホール