樺太開拓記念碑と国境標石のレプリカ 大泊同窓会解散記念碑 |
=このページは北の探歩訪の増補です= |
ポイント 北海道神宮境内の一角にひっそりと佇んでいる。 |
アクセス 北海道神宮公園口鳥居近くにある開拓神社の左手にある。 国土地理院地図 周辺地図 |
樺太開拓記念碑 <2015.4.27><2008.12.9> |
円山川の不動ノ滝を見た帰りがけ、北海道神宮内の開拓神社横を通りかかったら、樺太開拓記念碑が暖かな陽の光に包まれていた。台座には「第十二代樺太庁長官今村武志遺墨 丹心貫日月 武志」と刻まれている。大津無外(第十二代樺太庁長官大津敏男氏)の漢詩も鎮座している。裏に回ると、碑文があり、樺太の歴史が刻まれていた。 |
('15)樺太開拓記念碑('08) | 台座の碑文('15) | 大津無外の漢詩('08) |
れ 経営の歴史は十六世紀の昔に遡る 一五九三年豊臣 秀吉から松前 蝦夷地の支配を許された蛎崎氏は のち に松前藩となり 一六七九年から藩士を出し 久春古丹 (大泊の楠渓)に陣屋を設けて統治の端を開いた 以来 約百三十年間藩政は定着し邦人の出漁も次第に増した ところが一八〇六・七の両年に亘りロシアのフォースー フらが久春古丹や留多加を襲うにいたって 幕府は樺太 を直轄して自ら守ることになった このころから幕吏や 憂国の士の樺太探検があいつぎ 一八〇八年松田伝士郎 間宮林蔵が北樺太を究めた功績は間宮海峡の名と共に不 滅であるその後ロシアのネヴェルンスキーらが 久春古 丹に進駐した(一八五三)が 翌年長崎会談の結果撤退 した つづいて日露通好条約ができ(一八五五)国交は 約二十年間安定した しかるにロシアは軍艦の威力を示 して東進を迫るに至り 明治新政府は内外の多端に負わ れて 樺太を貧小十八の千島と交換せざるをえなかった (一八七五) さらにロシアの進路は満鮮に転じて国交 はいよいよ緊迫し 遂に日露の開戦となった(一九〇四 ) 幸い戦いは日本の大勝に帰し 翌年両国はポーツマス に会して和を講じ 漸く樺太の南半分を回復したのである 以後四十年間われわれの父祖はここを墳墓の地と定めて 不毛に挑み酷寒に抗し 心血を注いで殖産を興し 制度 を整え文教を進めて近代樺太を築き上げた かくて島民 待望の内地編入が行なわれ 年間の総生産額は四億円に 上り人口は四十万を算した この宝の島が一九四五年( 昭和二〇)大東亜戦争も末期となった八月九日未明から ソ連軍の進撃するところとなり 翌年ソ連はその領有を 宣言したが 米英等四十八ケ国は対日平和条約(一九五 二)においてそれを認めず 日本に放棄させた樺太と千 島十八島の帰属を定めなかった われらこの史実を辿り 北辺の開拓と守りに挺身した幾多先人の功績と犠牲を思 えば 痛恨愛惜切々としてつきない ここに樺太四十万 引揚者の赤誠を結集して不朽の碑を建て 先覚の偉大な 功績を顕彰すると共に 開拓の途上に散華した幾万諸霊 の冥福を祈る標となし もって民族の行路に一灯を掲げ るものである 昭和四十八年八月二十三日 社団法人全国樺太連盟会長 梅内正雄 元 樺 太 庁 長 官 小 河 正 儀 共撰 |
国境標石のレプリカ <2015.4.27><2008.12.9> =詳細は北海道ファンマガジンを参照のこと= |
樺太開拓記念碑の左側には樺太国境標石のレプリカがある。表(南側)は「菊の紋の上に大日本帝国、下に境界」の字が刻まれいている。右袖(西側)には「ACTP||||」、左袖(東側)には「天第四號/明治三十九年」、裏(北側)は『双頭鷲章の上にPOCCIЯ、下に1906/ГPAHИЦA』と刻まれている。この標石は天測標でもあったようだ。標石は全部で4つあり、1号はオホーツク海、4号は間宮(タタール)海峡に面して設置されていたといわれている。 |
右袖(西側)('15) | 国境標石(表:南側)('08) | 左袖(東側)('15) | 国境標石(裏:北側)('08) |
大泊同窓会解散記念碑 <2015.4.27> |
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開拓記念碑の傍らに「樺太庁/大泊中学校 創立百年/大泊高等女学校創立九十七年/同窓会解散記念樹」と刻まれた石碑があり、その傍には、添え木されている記念樹が植えられていた。 2012年(平成24年)7月10日に解散したようだ。卒業生が一人でも健在なら、頑張って継続して欲しかったと思いながら後にする。泥川会も今年が最後になるかもしれない。 |