樺太からの脱出 

  終戦間近の1945年8月9日に、突然ソ連軍が南樺太に侵攻してきた。間もなく、泥川にもソ連軍がやって来るようになった。花田一族はもうこれまでと、故郷を捨てた。
 泥川は亜庭湾の西に面し、西能登呂岬の北側に位置している半農半漁の寒村であった。
 これは、20世紀の真ん真ん中で起きた愛棒の体験した記憶に無い実話です。
(1)泥川からの最初の脱出
 ソ連軍は旧日本軍の軍需物資があるうちは民間人の財産を略奪しなかったようだが、物資が底をつきだすと民間人の財産を略奪するようになってきた。飼っていた馬「アオ」もソ連軍に徴用されてしまった。
 当時、次女タチエは豊原の郵便局、女学生のシゲは援農の真っ最中だった。この二人は親から帰るように言われ、直ぐに、夜がけして歩いた。雨龍浜からは海岸線をひたすら南下した。母のハナはすでに亡く、遺骨は豊原のお寺「景徳院」に納骨されていた。実は、この遺骨の残置が後々までタチエの心を痛めることになる。

 ソ連軍に占領されてから、毎日、毎日、女達を朝に山間に隠し、夕方迎えに行くという生活が始まった。粗末な小屋しか造られなかったので、持っていった衣類は野ネズミにかじられ着ることが出来なくなってしまった。花田一族は女が多かったせいもあったようだが、これでは冬は越せないと悟ったのだろう。敬五郎爺さんは、尼港事件や通州事件のことが頭を過ったこともあり、村人と共に故郷を捨てる決断をした。

 泥川から脱出する朝に、アオが足枷を引きずりながら帰って来た。この時には、みんなで声を上げて泣きながら餌を与え、荒野に放してやったと言う。
 こうして、花田一族は1945年9月22日に泥川から脱出を図る。
 以下、厚谷(佐藤)洋子さんの思い出歌集より

  昭和20年9月 泥川を離れる時

    静かなる夜更けを待ちて 荷を背負い
    川辺に映る月影寂し
    今ははや異国となりし空眺め
    悲しき心に最後のわかれ
    かくあれやこれが最後と想うれば
    育む二十年 思い出多し
    眺むるる山川草木懐かしき
    異国となりとも 変わり果てなし

 と詠って、9月22日午前2時に泥川を離れ、泥川の北、芳内に向かった。その日は星空だったようだ。途中の菱取を越える時に太陽がゆうゆうと昇ってきた。

 以下、寺中君江さんの手記より抜粋
 泥川から16kmくらい北の芳内の浜に隠れ家があった。折りしも9月23日の秋分の日、浜の隠れ家から村の婦女子100名ほどが闇に紛れて密行船(小さな動力船)に乗り込むことができた。運賃は1人十円に米1俵だった。

 真っ暗闇の中を船は出港した。疲れがでたのか皆もうとうととして静かに時が過ぎて行く。一時の静寂を破ったのが、「監視船の灯が見える」という船員の声だった。
 それから、ぽつりぽつりと雨が落ちてきて、秋の夜嵐になった。波は高くなり、船が奈落の底に沈むかと思えば、今度は高く浮き上がり、生きた心地はしなかった。船室にも波しぶきが入りムシロでしのぎ、子供達は結わえつけられた。
 「助け給え、守り給え」と母の祈る声が嵐の狭間に聞こえていた。いつしか、母の声も聞こえず船内は静かになり、それから数時間した時、「朝だ助かった」とあちこちから歓声が上がった。明けきった空は青く、秋の日差しは柔らかく、生き返った気がした。

 そこは、北見枝幸の沖合いであった。昨夜、ソ連の監視船に追われていたらしい。嵐になったから捕まらなかったのかもしれなかった。ここから北上し、24日12時に少し前に稚内の埠頭についた。秋田丸の船主(山田氏)が出迎えてくれていた。
 駅前の旅館で一泊し疲れを癒した。命がけの17時間、それでも私達を迎えてくれる本土があった。安心して住める大地があった。神仏のご加護を戴き、無事脱出できたことは万感胸にせまる。
 生涯忘れることの出来ない、私の思い出である。
 と記されている。
 敬五郎爺さんは、当時、船の燃料が不足していたので、自分の漁船の燃料を提供した。この時の燃料の一部には、幸運にも流れ着いたドラム缶のものもあったと言う。正に、天からの贈り物で、この燃料が無ければ行動は起こせなかったようだ。
 小さな発動機船は人で溢れていたが、敬子と両親の姿はない。岩崎さんは当時のことを子供ながらに座れなくて中腰のままだったと言う。船の出る時間は刻々と迫って来る。気が気でなかったが、村の人たちの命もかかっている。出発する間際に、敬五郎爺さんは、再び、知り合いの馬追いに金をやって、敬子の母親に伝言を頼んで樺太を後にした。

 敬五郎爺さんは娘4人と船に乗ったは良いが、何かの行き違いで来なかった敬子と敬子の両親のことを案じていた。次の日になり、無事、稚内に着いた娘4人は、実家のある上富良野に向けて旅立っていた。それを見届けると、また、樺太へ引き返す決心をした。

 敬五郎爺さんは船が稚内に着くとすぐに、全財産を投げ打って、船を再び、樺太に向かわせた。そして、芳内の浜で、野宿をしてひたすら敬子と両親の来るのを待っていた。
(2)小合の沢から脱出
 敬子の住んでいたのは多欄内の奥にある小合の沢だった。敬子の両親は、敬五郎爺さんの伝言を受け取り、迎えの船に間に合うように家を後にした。このとき、同じ職場にいた子連れの小田ご夫妻も誘ったらしい。必死の思いで、6人はソ連軍の手薄な夜中に行動した。ソ連軍は日一日と監視を強めていったので、国道は使えなかった。山道や藪を漕いで、約束の地を目指した。

 直線距離にして35kmの芳内の浜への逃避行が始まった。米は自分達の食料と金の代わりに持って出た。要所要所の集落でお世話になり、そのお礼に米を渡したらしい。敬子は生まれて、まだ4か月だった。4か月で山の中をビバークして進んだのは、山メール仲間でもおそらく敬子が最年少記録ではないだろうか。藪が嫌いな理由もわかるような気がする。

 後に、逃避行中に、赤ん坊だった敬子が重たくて、何度か捨てようかと思ったと敬子の母は話していた。その度に、夫がおんぶりなんとか凌いだらしいのだ。
 途中で、一人の兵隊だった男性と出会い、一緒に行動した。もし、この男性は敬子の母親に会うことがなかったら、シベリヤ送りだったに違いない。
 とにかく、約束した日を過ぎると、北海道に帰る術を失うから、必死だったようだ。

 この状況がどうだったか敬子の両親は、多くを語ろうとはしなかった。よっぽど、思い出したくもなかったのかもしれない。詳細は両親の死んだ今、もう分かる術はない。
(3)樺太脱出
 芳内の浜で無事、敬五郎爺さんと敬子らが再会した。7人は間に合ったのだった。その時が10月上旬としかわからない。
 見送りの人たちが敬五郎爺さんにもう一度、船から下りろと言っても、頑として下りなかったようだ。もう故郷を捨てた覚悟と、万一船が出てしまったら元も子もないので、船内に留まっていたようだ。
 そうこうしているうち、浜辺で悲劇が起きたのだ。見送りの人たちがソ連兵に銃殺されたと言うのだ。
 
 稚内に着いて、敬五郎爺さんは船が要らなくなったので、船長に譲った。その後の航海で、船長もソ連兵に銃殺されてしまったと言う。

 稚内で、ノミやシラミの付いていた服を着替え、上富良野の花田一族と合流した。その8年後、敬五郎爺さんは亡くなった。
(4)最後に
 戦争は悲しみだけを生む。故郷を奪っても、思い出は奪えない。再び、花田家の次女タチエと一番下のヒサエは故郷の泥川を訪ね、一族の思い出の品を埋めてきた。今は泥川と書かれた泥岩の小さな石が仏壇にあるのみ。

 それにしても、樺太アイヌの人々はどのような運命を辿ったのでしょうか。地名もすっかりロシア名になってしまったようですね。

 その後、敬子が泥川へ行くことになろうとは誰も思ってもいなかった。


   2001年1月14日 内容修正 2002年8月24日 2011年4月17日 2016年11月22日、自宅にて
=地名の対比=
アイヌ語 日本語 ロシア語
不明 亜庭湾 アニワ湾
ノトロ 西能登呂岬 クリリオン岬
イリリウシ(鵜の沢山居る所) 雨龍 キリーロヴカ
不明 芳内の浜(雨龍浜の南5km)
シュウツル(崖と崖の間) 菱取(ヒシトリ) タンボーヴカ
トマリオンナイ(内側が港) 泥川(泊尾) ウヤノブスコエ
タラナイ 多欄内 タラナイ
不明 小合の沢 不明
引用文献  郷土誌 泥川を想う
 旧地名のロシア名は下記のところで教えてくれました。
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