樺太の旅〜そこは確かにかつて日本の領土だった =2015ganさんが行く= |
(2015年9月6日〜9月12日) 6日 12時10分札幌〜車〜18時10分稚内 7日 9時00分稚内〜フェリー〜15時37分コルサコフ(旧大泊)16時50分〜送迎車〜17時55分ユジノサハリンスク(旧豊原) 8日 終日ユジノサハリンスク市(旧豊原) 9日 7時15分ユジノサハリンスク〜バス〜8時50分ホルムスク(旧真岡)12時〜バス〜13時45分ユジノサハリンスク 10日 12時10分ユジノサハリンスク〜バス〜13時05分ドリンスク(旧落合)16時07分〜サハリン鉄道〜17時00分ユジノサハリンスク 11日 7時00分ユジノサハリンスク〜送迎車〜7時37分コルサコフ10時15分〜フェリー〜15時10分稚内16時〜車〜20時30分小平町道の駅 12日3時40分小平町道の駅〜車〜北竜町経由〜5時58分札幌 経費 事前/ビザ4000円 手数料5400円 フェリー・ホテル/84800円 現地滞在費 7988P(ルーブル)約18930円 内訳 飲食3234P 交通費1047P 土産入場料ほか3707P 1P=2.37円換算 |
旅程 | 9/6・7 | 9/8 | 9/9 | 9/10 | 9/11・12 |
プロローグ編 |
今年7月20日は稚内港国際線フェリーターミナルにいた。 学生時代の友人が来道し、道東道北を案内するついでに、たまたま寄ったに過ぎなかった。朝9時出航するフェリーを見送りながら、それがロシアのコルサコフ行きなんだと、初めて意識する。数人の見送り人は後で分かったが、乗船している稚内市長関係者のようだった。そうか、この船に乗るとロシアに行けるんだ、それもかつて日本領土だった樺太に足を踏み入れる意義が
私の中で急速に膨らんでいく。 直ぐに調べると、これまでの経験上ではあり得ないビザの取得方法だ。現地での宿泊予約がないとダメらしい。日々どこで泊まるか分からない旅は少なくとも表向きは無理だと分かる。こうしてフェリー、ホテル、送迎付きで84800円の旅を東京の代理店に申し込んだ。夏休みの予定を立てていないのが幸いした。 |
9月6日 稚内焼きそば編 |
旅程 6日 12時10分札幌〜車〜18時10分稚内 |
◆流通価値 5日は山のトイレデーを兼ねて水無川から美瑛富士避難小屋周辺の清掃をして下山した。その夜は美瑛のそうちゃん宅で打ち上げをし、帰宅したのは6日朝7時だ。両替以外の旅の準備は何もしていない。 さて、その両替だが、5日前のレートでは1ルーブル(以下表記はP)当たり、私の買いが2.37円で、仮に残った売りは1.3円だ。なんという格差だろうと開いた口が塞がらないが、これかPの流通価値ということだ。 ジョグしてさっぱりした後、おもむろにザックを出して用意し始める。基本、パスポートに現金、バウチャー、乗船券さえ持てば後は深刻に困ることはない。 昼過ぎに稚内へ向けてハンドルを握る。結果明日朝8時に稚内に着けばいいのだから、実に気楽な運転だ。途中増毛の国稀酒造で夜に備えて水を汲む。小平町過ぎから天売、焼尻島が見え出し、その後海に突き出た利尻島が姿を見せる。 抜海へ向かう道道106号線の直線はライダーの憧れだという。 数台のバイクが残り僅かな観光シーズンを惜しみながら疾走していた。寝不足にも関わらず、18時過ぎに稚内港埠頭に無事着いた。 ◆大黒町 埠頭に正式なテン場などあるはずがない。オーバーハングした岸壁下は雨も当たらず、絶好のテン場と化すだけだ。歩いて1分にはトイレもあるのが有難い。テントを設営してから、明日の出航の前祝いをやらねばならない。駅前を徘徊するが、数軒の店が開いているだけで、猫が歩いている程度だ。日曜のせいもあるのだろう。 通りすがりのご婦人に尋ねると、繁華街の大黒町は歩いて10分だという。それを信じた私がバカだ。10分行けども見当たらない。コンビニで尋ねると、さらに10分以上は歩くという。南稚内駅近くに大黒町があるのだった。昨日の沢と今朝のジョグでもう疲労は頂点だ。諦めて駅前へと戻り、一軒のラーメン屋に入った。 ◆焼きそば 外から見ると数人のオヤジが酒を飲んでいるのが見えた。うんうん、これなら居酒屋代わりに使っても良さそうに思えた。テレビではU−18才の野球決勝戦が行われ、客は皆それに夢中だ。 メニューを見るとまさに居酒屋もどきだ。ビールを飲んでから、酒二合を頼む。煮タコの味は抜群だった。しな竹の量には満足だ。ギョーザの味はともかく650円はちょっと高すぎないか。 〆は焼きそばにしたのが間違いだった。そのしょっぱさには思わず白飯があればと思った。 半分よろけながら埠頭にたどり着く。さらに持参したふなぐちを空けてしまったのが、ほどほどを知らない浅はかな私だ。テントに入った途端に意識を失った。 |
9月7日 稚内・コルサコフ(大泊)・ユジノサハリンスク(豊原)〜プーチンとナターシャ編 |
旅程 7日 9時00分稚内〜フェリー〜15時37分コルサコフ(旧大泊)16時50分〜送迎車〜17時55分ユジノサハリンスク(旧豊原) |
◆山岡家 昨夜寝る時には4張だったテントが、朝には7張りになっていた。 6時前からジョグに出かける。まずはフェリーターミナルで駐車場の確認だが、有料のは見つかったが、国際線専用は不明だ。その後埠頭周辺をじっくりとジョグして回り、40分後にテントに戻る。 テントを撤収し、どこか朝からやっている店はないかと南稚内方面に車を走らせると、24時間営業の山岡家がやっていた。朝ラーメンは400円で、替え玉が100円とはお得感ありだ。追加の餃子が290円、〆て790円は朝の消費カロリーを越えている。麺は柔くと念を押したが、まだ物足りないのがマイナス評価だ。 ガソリンを入れて国際線ターミナルに行くと既に多くのロシア人と日本人がいる。見た目6割が日本で残りがロシアか。ターミナル手前のレンガ色の建物脇が国際線専用の駐車場だった。ターミナルの隅では日本人の団体が集会を行っている。後から分かったが、サハリンを訪ねる平和の旅など4つの団体が合同でツアーを組んでいるのだった。 ◆100円ビール 2階には待合に椅子だけあり、がらんとしている。そこで私は腹巻をして現金を入れる。一応何があるか分からないので、ルーブル25千、米ドル240、日本円5万円を腹巻きに入れた。 8時を回り、イミグレーションにロシア人が入り出す。並んでもしょうがないと、最後の最後に私は並ぶ。日本の出国手続きは簡単なものだ。昔はあった出国カードもいまではすべてパスポートに埋め込まれたデータ方式になっている。 そこを抜けると岸壁に出るが、既にそこは日本であって日本でないのと同様だ。もう簡単に戻ることは許されない。フェリーの写真を撮り、乗船すると二等船室は丁度いい混み具合だ。全員に幕の内弁当とお茶が渡される。さて噂に聞いていたビールの自動販売機の値段は確かに100円ポッキリだ。 直ぐに1缶買ったが、空になる。2缶目も空いてしまい、3缶目と思ったら、既に完売状態だ。 9時ちょうどの定刻にフェリーは岸壁を離れた。 2600トンのアインス宗谷には130名の乗客だ。快晴無風、宗谷海峡目指してフェリーは針路を北北東に取っていた。甲板に出て去りゆく稚内をただただ眺め続ける。上から白、青、赤のロシア国旗が微風に揺れる。 かもめがのんびりと紺碧の空に舞っていた。進む右手に宗谷岬の突端が見えた。 |
7:53 | 7:57 | 7:55 | 8:32 |
フェリーターミナル | ターミナル外観 | ターミナルの垂れ幕 | フェリー・アインス宗谷 |
◆些細なこと 一等船室はゆったりした椅子だが、横になれる2等の方が眠れる人にははるかに都合いい。一等船室の後が椅子がない甲板で一階下の甲板が二等の後ろにあり、椅子がある。べた凪に近い海だから揺れはほとんどないに等しい。 フェリーの後ろに続くスクリューの興す白い渦が100mは残っているだろうか。その内にロシアの領海に入ったことを船内放送で知る。二等の甲板に僧侶と、ツアーの参加者が集まってきた。添乗員が小さい卒塔婆を私にも渡した。戦争を含めて宗谷の海で亡くなった人々への慰霊祭を行うとのことだ。 読経の後には日本舞踊の舞もある。卒塔婆と共に花束を海に投げ込んだのだが、たった一つ、実に些細なことだが私には気になったことがある。木製の卒塔婆はともかく、花束を包んだビニールだけは外してほしかった。また一ついつまでも漂うゴミが増えてしまったのが、唯一残念なことと思いながら、私も一緒に合掌した。 |
9:44 | 10:06 | 14:09 | 14:15 |
一路ロシアへ | 海上での慰霊祭 | フェリーはほとんど揺れず | コルサコフが見えてきた |
◆コルサコフ港 左手に樺太の陸地が見え出した。岸と並行するようにフェリーは進む。甲板で横に若者が座っている。 ロシア人かと思って話しかけると、ドイツ人だ。モスクワからサハリンに来て、そこから稚内にフェリーで渡り、4日間の滞在で戻る途中だという。東京も大阪も、もちろん札幌も知らず、彼にとって唯一の日本は稚内だ。 5時間半の航海は終わりに近づく。コルサコフ港が徐々に見え出してきた。長さ200mほどの桟橋が海に突き出ている。先端には屑鉄が積まれ、荷役のクレーンが空中に腕を伸ばす。そこの中間地点に接岸するが、フェリーは後ろからそこに向かう。船員がロープを投げて桟橋の係員が受け取り、ロープを固定する。左右のロープでそれを行い、舳では錨を下ろす。こうしてフェリーはしっかりと係留される。 直ぐに上陸かと思ったが、それはない。まずは現地の係員数人が乗船し、船長などと書類の確認作業だ。さてやっと下船開始かと思ったが、遅々として進まなかった。 ◆出国カード 桟橋には一台のバスが待機し、10名ほどの乗客を乗せて200mほど離れたイミグレーションに向かう。その間私を含む次の集団が船底でバスが来るのを待っている。15分も待った頃やっとバスが来た。初めてロシアに立ったのは16時を回っていた。 イミグレーションとはいえ、実に質素な建物だ。入国カードと出国カードが船内で配られたが、過去の経験では出国カードは出国の際書けば良かった。二人の係員が入国手続きをしているが、時計で計ると一人2分以上はかかっている。やっと私の番が来たと思ったら、出国カードも書けと言われ、また列の最後尾に並ぶ。次の税関では機械に通しただけで、何も言われず通関したのには拍子抜けだ。 税関を抜けると「まるごとロシア」と書かれたカードを持った女性が立っていた。名をイリーナという現地代理店マジックツアー手配の通訳だ。ここで今回東京の代理店に同じ内容で申し込んだ日本人Yさんと初めてお会いする。50才前後に見えたYさんはIT関係の営業マンで、私と同じ休暇できたという。送迎車に乗り込むと直ぐにユジノサハリンクスへ向けて走り出した。 ◆日本語 イリーナの年齢は不詳だが、おそらくは40歳前後だろうか。顔立ちは明らかに東洋系だ。聞けば父が朝鮮人で母が日本人だというが、ちょっと複雑な日本語には覚束ない。私が英語で話すと、イリーナは英語が苦手のようだった。それでも車中では私が尋ねるあらゆる質問にも懸命に答えようとしてくれている。運転手のユーラも白系ロシア人の顔ではない。朝鮮か或はモンゴル系に私には見えた。 5日後の朝再びユーラが迎えにきたので車中で分かったことは、彼は33歳、奥さんが30歳で 8歳の息子、4歳の娘がいるということだった。スマホで家族の写真まで嬉しそうに見せてくれた。 ユジノまでの国道は申し分のない道だった。3車線は片側2車線が交互に続き、ストレスなく追い越せるのがいい。ユジノまでは1時間ほどだが、この間集落らしい集落はない。北海道の片田舎を走っているのと外の風景はなんら変わらなかった。 |
14:40 | 15:06 | 15:50 | 16:12 |
はしけを出します | 送迎バスを待つ | 出入国事務所 | 送迎のマイクロバス |
◆ナターシャとプーチン 市内に近づくにつれ、渋滞しだした。人口19万人のユジノはサハリン最大の町だ。なかなかホテルにはたどり着かない。イリーナに北方領土の話をしてみた。私の最大の関心は一般市民がこの問題を認識しているのかどうかだった。「ほとんどの人は知っていますよ」との返事だったが、これにはいまでも疑問符が付いている。 18時頃にやっとホテル・ラーダに到着した。7階建てのそれはどうみても築30年、或はそれ以上かもしれない。がらんとしたロビーに他の客はなく、全体的に暗く、レベルで言えば中の下か下の上だろうか。 しかし正直ホテルにこだわりはない。そこそこ綺麗なベットさえあれば、古かろうがサービスが悪かろうが、気にはならない。 40年前に旅していたインドの安宿に比べればどこも帝国ホテルみたいなものだ。受付にはまさにロシア顔した美人がいて、早速名をナターシャと名付けた。その横には黒服でいかつい無表情な男が立っているが、多分マネージャーなのだろう。それにしても愛想がない。顔をちょっと縦長にしたプーチンそのものだ。不愛想が当たり前のソビエト連邦時代の名残を感じるとは言いすぎだろうか。プーチンの年齢も謎の一つだ。40歳前後か、或は50歳か、ニヒルな顔つきからは確定が用意ではない。 ◆交渉 部屋の鍵になって私の部屋がどうも打ち合わせと違うのが分かる。イリーナが何やら代理店と電話で話しているが、結局は部屋の交換で終わったようだが、詳細は不明だ。朝食の時間が8時だという。 私はなんとか6時にならないかとイリーナに要求する。イリーナがプーチンと話し、6時半ならどうかというので、ダメもとでもう一度6時というと、最後はプーチンが折れたようだ。Yさんが交渉の成立が信じられないとしみじみ語る。彼は8時でいいそうだ。 609号室の鍵をもらい、部屋に入る。ダブルベットの部屋は十分な広さだが、20匹以上のハエが飛んでいる。持参した香取線香をたくといくつか落ちてくる。残りはノートの裏で叩いて始末した積りだが、またどこからか現れる。 小さいがバスタブがあった。お湯を出すと赤茶けた湯が出てきて止まらない。浴槽2杯分くらいを出してやっと普通の色になった。便座が日本より5センチは高く、これもロシア式なのだろう。お湯に浸かり、さっぱりしてから夕食を食べに町に出た。 ◆夕食難民 歩いて直ぐに5階建てのアパートの一階にドアがあり看板がある。覗いてみると、食料品店だ。ビールがほしく、缶を指さし「ロシア?」と聞いいてもなかなか意味は通じない。 ロシア語で書いてるあるからと69P払い外で開ける。一口飲んでよく見るとアルコール度数が書いていないのに気付いた。ノンアルコールビールがまさかロシアにあるとは思わなかった。この時の私の落胆ぶりは相当なものだった。 東西に走るサハリン通りを西に向かう。市場の先を左折して鉄道沿いに駅に向かうが、この間食堂のようなものが見つけられない。ロシアには気軽に立ち寄れる食堂や屋台がほとんどない、と言っていいほどだと知るまで30分はかからなかった。持参のガイドブックにあるカフェに何とかたどり着くまで1時間以上歩いていた。鉄道駅から徒歩10分南東に行ったヴェランダはカフェテリア方式になっていて、並んでいるロシア料理を自分で選ぶ。黒パン2枚に牛肉のスープ、それに生ビール1Lを頼んで397P(940円)ほどだ。ホテルからはまっすぐ来ても20分ほどで、これでとりあえず夕食難民を逃れられる店を見つけて一安心した。 別の食料品店でウォッカの大瓶とミネラルウォーターをそれぞれ380P、20Pで買ったので、ザックはそこそこ重く感じながら、ホテルへと帰る。ナターシャが少しはにかみながら鍵を渡してくれたと思ったのは一方的な勘違いだろうか。ホテルで再びお風呂に浸かり、買ってきたウォッカをひっかける。胃袋に鉛と針を同時に入れるような、刺激的なロシアの夜は更けて行く。 |
9月8日 ユジノサハリンスク(豊原)〜日本領土確認編 |
旅程 8日 終日ユジノサハリンスク市(旧豊原) |
◆朝食メニュー 3時半に目覚めてから眠れず、うとうとしていたら5時半近い。ウォッカも頭には残っていないので、今日の行動には支障はなさそうだ。交渉で朝食を6時とした手前、これに遅れることは許されない。いつもの私なら起きて直ぐにジョグに行くところだが、朝食後に決める。しかし、それでも6時の朝食がちゃんと用意されているかは半信半疑だ。 日付入りの朝食券を持ち、6時きっかりに1階のBARに行くと電気が点いていた。2階に食堂があるのだが、私専用にBARが開かれた。朝食はなんだろうとワクワクしていたら、牛肉が載ったご飯、ピロシキとプレーンのパンが2個、バター、チーズ一枚とハム2枚。朝作った訳ではなく、前日用意されていたものをチンしだけだが、量としては十分だ。「TEA ? COFFEE?」とここだけは英語を話すナターシャに「COFFEE」と返す。 7時8分にジョグに出た。隣りには旧豊原公園、現ガガーリン公園が見た目1km四方の大きさであり、それを一周してみようと外の道路に沿って ゆっくりと走り出した。最後は公園の中にも入り、結果4人のロジア人ジョガーとすれ違う。しかし現地滞在中に遭ったジョガーは彼らだけだった。 ◆難解表示 実質滞在は3日間だけだ。大まかな行動は想定していた。一日はユジノ市内を歩き回り、二日目はバスで1時間45分ほどのところにあるホルムスク、旧真岡に行き、3日目はできればサハリン鉄道に乗りたいと思っていた。ただ問題は英語がほとんど通じないことで、表記のロシア語も日本人には極めて難解だ。 8時半過ぎにホテルを出た。ガイドの地図を頼りに歩き出す。札幌同様碁盤の目に道路がなっているでの、方角さえ間違えなければ実に歩きやすい。昨夜は夜歩いたせいもあり、よく分からなかった町中だが、日中だとその様子もよく分かる。埃っぽい道路だが、メイン道路は片側2車線あり、しかも札幌以上に並木が整然と並んでいる。 交差点には信号があるが、T字路にはほとんどない。横断歩道では、歩行者は車が停まってから歩きだすのではない。一方的に歩きだし、それに応じて車が停まる。はじめは不安に感じていたが、私も次第にそれに倣う。 車の95%は日本車で、トラックには「青木建設」「西濃のカンガルー便」などの日本語もある。ナンバープレートの右端にはロシアの国旗が入っているのは、多民族国家をまとめための手段だろうか。建物は4,5階建てのアパートがほとんどを占めて、新しいものももちろんあるが、壁が落ちたり、ベランダが朽ちているような、40年、50年以上経過しているのはざらに目にする。そのほとんどすべてが現役で稼働しているのには驚くばかりだ。 ◆日本の遺物 ユジノ市内には日本領土時代の遺物がいくつかまだ残っていた。まずは北海道サハリン会の事務所を目指して行くが、アパートの中の一室に事務所はあるようで結局分からない。その直ぐ先には旧樺太守備隊司令官邸が赤い屋根を持って、通りの裏にひっそりと建っている。ここは今、軍事裁判所としてまだ現役で稼働しているということだ。 サハリン通りに見つけたカフェでスモークサーモンサンド115P(272円)と紅茶20P(47円)で一休みする。次に向かったのは旧樺太庁部長官舎だが、周りは塀に囲まれて、市民を含めてその存在を知らない人は多いだろう。たまたまゲートが空いて中から車が出てきた。写真を撮らせてほしいと頼むとOKが出る。すべてジェスチャーでの意思疎通だ。 ピンクと緑の板壁の平屋作りは、まさに息をひそめて建っていた。裏通りで地図を見ていると、40歳前後のロシア人がどうした?と話しかけてきた。通りの名前を連呼して、現在地を教えてくれているようだ。王子製紙の工場跡を目指して行くと、高い煙突が2本と工場がまだしっかりと残っている。 次に向かったのは日本時代にできた橋だが、現在の通りの横にそれはまだ橋の体をなしている。私は日本人だからそれを意識して見ているが、市民には単に古ぼけた橋の残骸にしか見えないだろう。 |
5:14 | 7:31 | 7:36 | 7:49 |
ホテルの朝食 | ホテル・ラーダは古かった | 通りには緑が多い | 樺太守備隊司令官邸 |
7:54 | 8:01 | 8:03 | 8:08 |
官邸脇の通り | お酒売り場、ウォッカの種類多い | 商店の入り口は地味 | 旧樺太庁部長官舎 |
9:04 | 9:04 | 9:09 | 9:11 |
ピロシキなど値段は日本並み | スーパーの広告 | 通りのゴミ | 王子製紙工場跡 |
9:16 | 9:18 | 9:19 | 9:24 |
交通標識 | 広告の内容がいまいち不明 | ファミリー | 樺太時代の橋 |
◆早目の昼食 気温は20度を越えて、Tシャツ一枚でも歩けるほどだ。疲れてベンチに腰を下ろすと、犬を抱えたご婦人が愛犬の自慢をしてるのが表情で分かる。愛犬家がロシアにいても何の不思議もないが、傍で見る限る、富裕層のステータスシンボルのように私には見える。 市場脇のショッピングセンター地下に行くと、ラッキーにも食堂があった。まだ10時を回ったばかりだが、6時に朝食だったから空腹を覚える。ここもカフェテリア方式で言葉が分からなくても注文は可能だ。一人片言の英語を話す黒ぶちメガネのお姉さんが私の助太刀をしてくれる。 無性にビールが飲みたいが、置いていないので、近くで買って持ち込んでいいかと聞くとOKが出る。近くの食料品店で60P(142円)で500MLの缶ビールを買ってくる。それを飲みながら、ボルシチと温野菜で早目の昼食を済ませた。ついでにトイレに行くのも忘れない。駅などにあるトイレはほとんどが有料で、ユジノで20P(47円)、ホルムスクでは15P取られる。入り口にはおばさんが料金回収で立ちはだかるのだ。 ◆試練 市場を見て回る。原色鮮やかな果物や野菜が豊富に並ぶ。りんご、柿、桃、ブドウ、白菜、キャベツ、なすなどなど。それに原野で収穫したのだろうか、木苺やキノコ、グミのようなものが瓶に入れて並べられる。茹でたとうきびも売っている。 市場から駅に向かうと線路脇には鉄道ファンなら垂涎ものの機関車や気動車などが展示されている。今現在もサハリンの鉄道は狭軌のままで、これこそ日本遺物の典型例と言えるだろう。 サハリン駅は立派な外観だ。入ると直ぐに警官がいて、金属探知のゲートをぐぐる。掲示板には出発と到着の一覧が載っているが、長距離列車ばかりのようだ。さてここからがこの日最大の試練が待っていた。できれば明日か明後日鉄道に乗りたいと考えていた。 近場のドーリンスク(旧落合)まで往復したいと思い、切符売り場に並ぶ。 駅員のお姉さんは40才前後のブロンドヘアーだ。ユジノとドーリンスクの間を往復したい旨を英語と身振り手振りで説明するが、何やら話すロシアが私にはチンプンカンプンだ。その内、別のお姉さんが私のところにやってきて、また同じことを繰り返す。地図でドーリンスクを指し、ユジノを連呼し、機関車のシュシュポポシュシュポポとオーム返しでやっと状況を理解してもらう。そして私は時計を指さし、分からない、といった表情で返す。 お姉さんが紙に書くには、11時45分ユジノ発で12時35分ドーリンスク着し、16時05分ドーリンスク発で17時にユジノ に戻るということがやっと分かるまで15分以上はかかっていた。少しでも英語が分かれば、と思うが、ここはロシア、まして最近特に対立激しい敵国アメリカの言葉などどうして率先して使おうか。 そんなプーチンの確固たる鉄の意思がここにも見え隠れするとはうがった考えか。さっきのビールが効いてきたのか、地下にあるトイレで20p払い用を足した。 ◆存在感 駅前の横には長距離のバス発着所がある。とはいえ、ターミナルに該当するような建物はない。普通のビルの一階の一室が切符売り場になっているのを、それすら旅行者には分かり難い。ドアを開けると確かに切符売り場があって、窓口が2つある。ホルムスク行きの始発バスが知りたくて尋ねるが、案の上意味は通じない。 その時だ。 後にいた幼子を連れた男性が片言ながら英語で話かけてきた。それで分かったことは7時15分始発で、ナンバー516が ホルムスク行きのバスだと分かった。深々と頭を下げてお礼を述べる。 さて、これで交通手段のことはなんとかなりそうだ。駅から10分、レーニン通りにある旧北海道拓殖銀行がまだ現存しているのを確認に行くと、そこはサハリン州立美術館として活用されている。羆の彫刻が壁にあった。札幌にあった本店もそうだったように、実に頑丈な2階建てで、まだまだ現役を続けられそうに見える。 レーニン通りを南に向かい、初日の夜に入ったヴェランダに寄って、ビールを飲みながら旅のメモを取った。駅前からまっすぐに東に延びるのがコミュニスト通りで、官庁が左右に並ぶ。右手にチェーホフ劇場があり、その向かいには10階建てくらいの大きな建物があり、明らかに他のビルとは存在感が違う。 サハリン・エナジーはまさにロシア・極東のエネルギー戦略を一手に担う会社で、ロシアの今を象徴している。そこから5分東に歩くと旧樺太庁博物館がサハリン州立博物館として、これも活用されている。まるで日本の城郭が再現されたかのうような東洋の臭いに満ちた建物だ。 入場70P(170円)を払って入ると、そこに日本占領時代以前からの歴史が綿々と展示されている。惜しいかな、英語の表記が並列されていたなら、もう少し私の理解も進んでいただろう。 中でも太古の時代の琥珀の展示が興味を引いた。拡大レンズを通してみた琥珀には昆虫がそのままの状態で入っていた。 ◆巡回バス 一旦ホテルに戻り、お風呂に入る。朝から歩き続けたので、足の疲れは隠せないが、お湯に浸かれば回復したような気になるものだ。少し休んでから、今度は市内バスに乗りに出た。7番19番20番のバスが市内を循環しているので、町の概要をつかむには丁度よい。一口にバスとは言っても、普通の大きさのバスもあるが、多くは小型ワゴン車を改装したもので、定員は10人〜14名ほどだ。フロントガラスと横にはしっかりとナンバーが掲示されているので、旅行者にも分かり易い。 まずはビールを買ってバス停で待つと、直ぐに20番がやってきた。 ホテル前からガガーリン公園沿いに北へ向かい、サハリン通りに入り、次にレーニン通りを南に向かう。次に勝利通りを東に向かい、再びホテル前のコムソモール通りを戻って来る。一周約40分ほどで、勝利通り付近は高層マンションの建設ラッシュだ。運転手に顔はばれているので、いつまで乗っているんだと文句を言われるかと思ったが、何も言われずホッとする。 結局一周以上乗り続けてサハリンショッピングセンター手前で降りることにした。料金が分からず、50P札を渡すと13Pが返された。 市場周辺を探索し、土産用のウォッカを仕入れる。今度は逆回りの20番に乗ってホテルに戻るまで2時間近く徘徊を楽しんだ。ナターシャはいなかった。ナターシャ2もなかなかの美人で頬が緩む。 ◆新人ボーイ 近くのガガーリン公園に入り口にはちょっと高級なガガーリンホテルがあり、その脇奥にログハウス調のレストランがあるのを、 朝のジョグの時に確認していた。夕食はそこで摂ろうと出かけたら、朝鮮系の経営者のようだが、英語は通じる。 10人ほどのご婦人が会食を楽しんでいるような脇のテーブルに座る。メニューからウォッカを選ぶが、ストリチナヤはボトルが768P(1820円)だが、出てきたのは青いラベルで、メニュ‐にある赤い色ではなかった。マネージャーに確認すると色が違うだけで同じですとの返答だ。残ったら持ち帰るよ、と伝えるとOKが返る。 ジュースは要らないのかと聞かれ、それは断る。ウォッカは強い酒なので、こちらではウォッカを飲んでからジュースを飲んで、胃袋で薄めるらしい。慣れないボーイにいろいろ尋ねるが要領を得ない。スモークサーモン、チキンカツのオートブルとウハ(魚)スープ、黒パン2枚を頼む。オードブルはとても美味しく、スープは鮭だったが、まるで三平汁のような味付けだった。メモと写真を撮りながらガンガンとウォッカをストレートで飲んだから、酔いが相当回ってきた。 会計を頼むと、店主らしき男がボーイの書いた伝票を元に何度も手計算を繰り返す。 900P(2133円)と伝票に書かれて支払いを済ます。ホテルに着いて頭は少し冷静になっていた。ボトルだけで768で、オードブルが400前後だ。それにスープが280で、パンが2枚。う〜ん、どう考えても伝票の記入ミスか店主の計算間違いか。持ち帰ったストリチナヤをチビチビ飲みながら、もしやボーイが怒られていないだろうかと ちょっぴり気掛かりだったのだ。 ◆早目の昼食 気温は20度を越えて、Tシャツ一枚でも歩けるほどだ。疲れてベンチに腰を下ろすと、犬を抱えたご婦人が愛犬の自慢をしてるのが表情で分かる。愛犬家がロシアにいても何の不思議もないが、傍で見る限る、富裕層のステータスシンボルのように私には見える。 市場脇のショッピングセンター地下に行くと、ラッキーにも食堂があった。まだ10時を回ったばかりだが、6時に朝食だったから空腹を覚える。ここもカフェテリア方式で言葉が分からなくても注文は可能だ。一人片言の英語を話す黒ぶちメガネのお姉さんが私の助太刀をしてくれる。 無性にビールが飲みたいが、置いていないので、近くで買って持ち込んでいいかと聞くとOKが出る。近くの食料品店で60P(142円)で500MLの缶ビールを買ってくる。それを飲みながら、ボルシチと温野菜で早目の昼食を済ませた。ついでにトイレに行くのも忘れない。駅などにあるトイレはほとんどが有料で、ユジノで20P(47円)、ホルムスクでは15P取られる。入り口にはおばさんが料金回収で立ちはだかるのだ。 |
9:27 | 9:28 | 9:44 | 10:27 |
車のナンバーには国旗が | 世間話が長い | 映画館 | ロシア料理が並びます |
10:28 | 10:56 | 11:02 | 11:06 |
サラダも充実 | 市場です | 商売繁盛かな? | 若い女性はセンスがいい |
11:08 | 11:09 | 11:55 | 12:00 |
トーキビの立ち売り | 左は新しいショッピングセンター | 衣類専門のお店 | 日本のトラックも大活躍 |
12:05 |
奥に見えるのがかつて旭山と呼ばれていたらしい |
◆試練 市場を見て回る。原色鮮やかな果物や野菜が豊富に並ぶ。りんご、柿、桃、ブドウ、白菜、キャベツ、なすなどなど。それに原野で収穫したのだろうか、木苺やキノコ、グミのようなものが瓶に入れて並べられる。茹でたとうきびも売っている。 市場から駅に向かうと線路脇には鉄道ファンなら垂涎ものの機関車や気動車などが展示されている。今現在もサハリンの鉄道は狭軌のままで、これこそ日本遺物の典型例と言えるだろう。 サハリン駅は立派な外観だ。入ると直ぐに警官がいて、金属探知のゲートをぐぐる。掲示板には出発と到着の一覧が載っているが、長距離列車ばかりのようだ。さてここからがこの日最大の試練が待っていた。できれば明日か明後日鉄道に乗りたいと考えていた。 近場のドーリンスク(旧落合)まで往復したいと思い、切符売り場に並ぶ。 駅員のお姉さんは40才前後のブロンドヘアーだ。ユジノとドーリンスクの間を往復したい旨を英語と身振り手振りで説明するが、何やら話すロシアが私にはチンプンカンプンだ。その内、別のお姉さんが私のところにやってきて、また同じことを繰り返す。地図でドーリンスクを指し、ユジノを連呼し、機関車のシュシュポポシュシュポポとオーム返しでやっと状況を理解してもらう。そして私は時計を指さし、分からない、といった表情で返す。 お姉さんが紙に書くには、11時45分ユジノ発で12時35分ドーリンスク着し、16時05分ドーリンスク発で17時にユジノ に戻るということがやっと分かるまで15分以上はかかっていた。少しでも英語が分かれば、と思うが、ここはロシア、まして最近特に対立激しい敵国アメリカの言葉などどうして率先して使おうか。 そんなプーチンの確固たる鉄の意思がここにも見え隠れするとはうがった考えか。さっきのビールが効いてきたのか、地下にあるトイレで20p払い用を足した。 ◆存在感 駅前の横には長距離のバス発着所がある。とはいえ、ターミナルに該当するような建物はない。普通のビルの一階の一室が切符売り場になっているのを、それすら旅行者には分かり難い。ドアを開けると確かに切符売り場があって、窓口が2つある。ホルムスク行きの始発バスが知りたくて尋ねるが、案の上意味は通じない。 その時だ。 後にいた幼子を連れた男性が片言ながら英語で話かけてきた。それで分かったことは7時15分始発で、ナンバー516が ホルムスク行きのバスだと分かった。深々と頭を下げてお礼を述べる。 さて、これで交通手段のことはなんとかなりそうだ。駅から10分、レーニン通りにある旧北海道拓殖銀行がまだ現存しているのを確認に行くと、そこはサハリン州立美術館として活用されている。羆の彫刻が壁にあった。札幌にあった本店もそうだったように、実に頑丈な2階建てで、まだまだ現役を続けられそうに見える。 レーニン通りを南に向かい、初日の夜に入ったヴェランダに寄って、ビールを飲みながら旅のメモを取った。駅前からまっすぐに東に延びるのがコミュニスト通りで、官庁が左右に並ぶ。右手にチェーホフ劇場があり、その向かいには10階建てくらいの大きな建物があり、明らかに他のビルとは存在感が違う。 サハリン・エナジーはまさにロシア・極東のエネルギー戦略を一手に担う会社で、ロシアの今を象徴している。そこから5分東に歩くと旧樺太庁博物館がサハリン州立博物館として、これも活用されている。まるで日本の城郭が再現されたかのうような東洋の臭いに満ちた建物だ。 入場70P(170円)を払って入ると、そこに日本占領時代以前からの歴史が綿々と展示されている。惜しいかな、英語の表記が並列されていたなら、もう少し私の理解も進んでいただろう。 中でも太古の時代の琥珀の展示が興味を引いた。拡大レンズを通してみた琥珀には昆虫がそのままの状態で入っていた。 |
12:36 | 12:37 | 12:36 | 12:52 |
ユジノサハリンスク駅構内 | ユジノサハリンスク駅構内 | ユジノサハリンスク駅外観 右にモスクワ時間も |
駅前公園 |
12:58 | 13:12 | 13:25 | 14:14 |
旧北海道拓殖銀行豊原支店 | 駅から東へ延びるコミニスト大通り | 旧樺太庁博物館 | ホテル前のロシア正教会 |
◆巡回バス 一旦ホテルに戻り、お風呂に入る。朝から歩き続けたので、足の疲れは隠せないが、お湯に浸かれば回復したような気になるものだ。少し休んでから、今度は市内バスに乗りに出た。7番19番20番のバスが市内を循環しているので、町の概要をつかむには丁度よい。一口にバスとは言っても、普通の大きさのバスもあるが、多くは小型ワゴン車を改装したもので、定員は10人〜14名ほどだ。フロントガラスと横にはしっかりとナンバーが掲示されているので、旅行者にも分かり易い。 まずはビールを買ってバス停で待つと、直ぐに20番がやってきた。 ホテル前からガガーリン公園沿いに北へ向かい、サハリン通りに入り、次にレーニン通りを南に向かう。次に勝利通りを東に向かい、再びホテル前のコムソモール通りを戻って来る。一周約40分ほどで、勝利通り付近は高層マンションの建設ラッシュだ。運転手に顔はばれているので、いつまで乗っているんだと文句を言われるかと思ったが、何も言われずホッとする。 結局一周以上乗り続けてサハリンショッピングセンター手前で降りることにした。料金が分からず、50P札を渡すと13Pが返された。 市場周辺を探索し、土産用のウォッカを仕入れる。今度は逆回りの20番に乗ってホテルに戻るまで2時間近く徘徊を楽しんだ。ナターシャはいなかった。ナターシャ2もなかなかの美人で頬が緩む。 ◆新人ボーイ 近くのガガーリン公園に入り口にはちょっと高級なガガーリンホテルがあり、その脇奥にログハウス調のレストランがあるのを、 朝のジョグの時に確認していた。夕食はそこで摂ろうと出かけたら、朝鮮系の経営者のようだが、英語は通じる。 10人ほどのご婦人が会食を楽しんでいるような脇のテーブルに座る。メニューからウォッカを選ぶが、ストリチナヤはボトルが768P(1820円)だが、出てきたのは青いラベルで、メニュ‐にある赤い色ではなかった。マネージャーに確認すると色が違うだけで同じですとの返答だ。残ったら持ち帰るよ、と伝えるとOKが返る。 ジュースは要らないのかと聞かれ、それは断る。ウォッカは強い酒なので、こちらではウォッカを飲んでからジュースを飲んで、胃袋で薄めるらしい。慣れないボーイにいろいろ尋ねるが要領を得ない。スモークサーモン、チキンカツのオートブルとウハ(魚)スープ、黒パン2枚を頼む。オードブルはとても美味しく、スープは鮭だったが、まるで三平汁のような味付けだった。メモと写真を撮りながらガンガンとウォッカをストレートで飲んだから、酔いが相当回ってきた。 会計を頼むと、店主らしき男がボーイの書いた伝票を元に何度も手計算を繰り返す。 900P(2133円)と伝票に書かれて支払いを済ます。ホテルに着いて頭は少し冷静になっていた。ボトルだけで768で、オードブルが400前後だ。それにスープが280で、パンが2枚。う〜ん、どう考えても伝票の記入ミスか店主の計算間違いか。持ち帰ったストリチナヤをチビチビ飲みながら、もしやボーイが怒られていないだろうかと ちょっぴり気掛かりだったのだ。 |
15:22 | 15:51 | 18:12 |
バス車内 | このタイプのバスが主流 | 夕食はホテル近くのレストランで |
9月9日 ホルムスク(真岡)へ〜泥酔オヤジ編 |
旅程 9日 7時15分ユジノサハリンスク〜バス〜8時50分ホルムスク(旧真岡)12時〜バス〜13時45分ユジノサハリンスク |
◆出遅れ 朝5時2分にロビーに降りると、入り口のドアには鍵がかっている。フロントには誰もいないので、勝手に内鍵を回して外に出た。気温は12,3度辺りだろうか。さすがに車も人もほとんどいない。サハリン通りからレーニン通りに入り、駅前のバスターミナルに行くが、誰もいない。そこからレーニン通りを突っ切って東に進み、コミュニスト通りから宿に戻ると5時38分だ。手がすっかり冷たくなている。厚着したのでたっぷりと汗をかいた。この快感を求めて既に30年近い。朝食メニューは鮭つきご飯に、卵サラダ、パン2個と、今朝は紅茶を注文する。6時20分にホテルを出る。 ホテル脇の道を西に向かい、途中からコミュニスト通りに入り、駅へと向かう。早朝の駅前公園には人もいなくて、レーニンが寂しそうに天を仰いでいる。バス券売り場前には数人が並んでいる。ドアが開くのは7時からだ。駅に入って用を足して戻ると、既に7時を過ぎている。券を買うのに今度は苦労しない。ホルムスクというと直ぐに意味が通じたようだ。350P(830円)で所要時間は1時間45分の予定だ。 定員14名の516番バスは定刻に5分遅れて出発だ。乗客は10人もいない。おばあさんが手押し車の処理に手間取っていると、後の婦人が手助けする。出遅れた自分を恥じるばかりだ。時折牧草のロールと、放牧された乳牛が目に入る。半分凍らして持参したストリチナヤをチビチビ飲んでいるのを乗客の誰が気付くというのだろうか。 |
5:11 | 5:37 | 5:47 | 5:53 |
9日のホテル朝食 | 朝6時過ぎの通り | ユジノ駅まえのレーニン像 | 左手建物がバス券売り場 |
6:08 |
このバスがホルムスク(真岡)行き |
◆乗り継ぎの確証 ユジノの北西に位置するホルムスク、旧真岡はユーラシア大陸とサハリンの間宮海峡に面している。人口は29千ほどで、ここにも王子製紙や真岡神社跡の日本の名残をみることができる。また終戦直後の8月20日真岡郵便局の電話交換手9名がソ連軍侵攻に際し、青酸カリでの集団自決は悲劇の象徴として語り継がれている。バスは高台から海に向かって一気に高度を下げて行く。ほどなく踏切を渡って右に進むとバスターミナルに着いた。 まずは帰りのバスの時刻を調べるが、できればここから南下して別ルートでユジノの帰れないかを模索していた。男が「ネヴェリスク、ネヴェリスク」と大声でバスの乗客を集めている。ネヴェリスクは南に位置していて、そこから先うまく乗り継げるのかが分からない。男にその旨話してみるが、確証が得られないので、踏ん切りがつかない。ロシア語さえ話せたら、実に簡単なことだったかもしれない。 真岡郵便局は既にその跡形はなく、ビルが建っている。適当に南に向かって歩きだす。線路を跨ぐ道を行くと、先に見えるのが煙突を持った王子製紙の跡だと分かる。高台にある通りを行くと市庁舎があり、その向かいにスーパーマーケットがあった。黒服を着た若い男が二人、所在なさそうに店内を徘徊している。警備員なのか、店員なのか、日本の感覚ではこの店には不釣り合いだ。 惣菜コーナーで鶏肉料理を見つけ、予備のウォッカと一緒に買う。店の前に小さいな子供の遊び場があり、そこのベンチて鶏肉をほおばる。ここでもウォッカをチビチビと飲んでいた。 |
8:09 | 8:13 | 8:28 | 8:31 |
ホルムスクのバスターミナル | 真岡郵便局のあった場所 | ターミナル内の有料トイレ、1回23円 | アイヌ人の慰霊碑か何かでしょう |
8:51 | 8:52 | 8:52 | 9:40 |
鉄道の工事中 | ホルムスク駅はこの先です | 王子製紙工場跡 | ホルムスク市庁舎 |
9:43 | 9:44 |
野菜売り | 魚を売っていますが、冷凍ものばかり |
◆泥酔男 通りを下ると戦勝記念碑があり、坂を上ると真岡神社跡の石段だけが残っている。その石段に腰かけて、間宮海峡をしばらく眺めていた。ここにも築後数十年の建物がかろうじて崩壊を免れているが、まだ現役を貫いている。 跨線橋を渡って海岸横の通りに戻る。そぞろ歩いて北へ向かうと小さいな公園があり、脇の海では小型のヨットが浮かんでいる。夫婦と思しき二人が芝生に座っている。立ち上がった男の足元は完全にふらついている。相当な泥酔状態のようだ。その内男は芝生に立て膝をして、チャックを開けて小便をしだした。それに気づいたのは私だけだったかもしれないが、他山の石という言葉思い出した。 さらに歩くとプリモールスキー公園があり、脇にはショッピングセンターがある。トイレを借りて用を済ませて、のんびりとバスターミナルに向かって戻りだしたが、さっきの泥酔男は既に居なかった。まともに歩けるとは思わないが、果たしてどうなったか私には所詮どうでもいいことではあった。 |
9:48 | 9:56 | 10:04 | 10:14 |
この先に真岡神社跡があります | 真岡神社の階段だけ残っている | 築数十年?の建物はまだ現役 | 親子の休日 |
10:29 | |
公園にあったポニー馬車 | 公園から見た港 |
◆繁盛の秘訣 12時発のバスでユジノに戻ったが、途中から眠ってしまう。駅前に着く直前に目が覚めた。ヴェランダに寄ってソーセージを肴にビールを飲んでホテルに戻る。風呂に入ってさっぱりしてから、今度は7番バスを乗りに出かける。 缶ビールを55Pで仕入れて待つこと数分で7番が来た。さて、どんなルートを通るだろうとワクワクしていたら、サハリン通りをそのまま進み、線路を渡ってから駅の裏通りを南へ下り勝利通りで左折するというルートだった。バスの運転手は運転中も一切構わず、無線で誰かとしゃべり続ける。一周以上を乗って、中心部でバスを降りた。 旧北海道拓殖銀行の向かいにあるカフェNO1は地元で人気のあるレストランのようだ。一度は入ろうと思っていたので夕食のため探してみるが、既にお店はなくなっていた。さて、またヴェランダに行くのも手だが、できれば新しい食堂で食べてみたい。 市場近くに行こうと裏通りを歩くと、食堂らしきものを見つける。入るとそこには彦麿そっくりな丸い目をした女性が切り盛りしている。メニューの看板はあるが、何がなんだかさっぱり分からない。ビールだけはまず頼んだ。他の客の食べているのを指さして、チーズサラダにボルシチ、それに牛肉料理を頼んだ。出てきた肉料理は小さなこぶしほどの肉の塊が3個と、おおきなじゃないもの煮込み料理だ。そのボリュウムには圧倒された。 店には5歳くらいの双子の女の子が座っていた。背広を着た親父がその子の世話を焼いている。翌日分かったことだが、男と女は夫婦でその子供ということだ。女も男も白系ロシア人とは明らかに違う。モンゴルとかタジキスタン方面の血が流れているのかと私は感じた。 私がトイレに立った時、奥の方まで私の後を少年が気づかい、付いてきた。女店主の細かな気配りに、この店の繁盛の秘訣が見えていた。食堂を出たのは8時近い。NO20のバスで帰るとナヤーシャ3がフロントにいる。ナターシャ3人の中ではもっとも若手だ。冷やしてあったウォッカをぐいっと飲んで、9月9日のロシアはもうすぐ過去になろうとしていた。 |
13:03 | 13:04 | 14:18 | 14:30 |
これも相当な年代ものです | ユジノの女性二人連れ | 旧豊原町役場 | 巻スカートのようです |
18:28 | 19:00 |
夕食です。右がボルシチ、左はじゃがいも、牛肉の煮込み | 食堂のおかみ |
9月10日 ドリンスク(落合)へ〜サハリン鉄道は手ごわかった編 |
旅程 10日 12時10分ユジノサハリンスク(旧豊原)〜バス〜13時05分ドリンスク(旧落合)16時07分〜サハリン鉄道〜17時00分ユジノサハリンスク(旧豊原) |
◆王子ヶ池 朝起きたらなんと5時55分だった。慌てて一階に下りて行く。今朝のメニューは鳥のから揚げに、卵焼き、サラダにパンが2個で、ご飯はつかない。一瞬忘れたかと思ったが、このままだった。しかし気が利かないのは上の電気を消したままだ。この辺りの感覚は到底分かりかねる。 ついに小雨模様の空だ。6時32分にジョグに出て、駅まで行ってみる。稚内からのフェリーが一緒だった日本人がバスターミナルにいたので挨拶だけはした。コルサコフ行きのバスが停まっていたので、運転手に次のバスは何時だと身振り手振りで尋ねると、時計の午後1時を指さした。え、そんなにないのかと思いながらも、ちょっとは考えていたコルサコフ行きを諦めた。7時8分にホテルに戻り、ゆっくりとお風呂に浸かる。 ドリンスク行き列車は11時45分発だから時間はある。 まだ19番のバスに乗っていなかったのを思い出す。しかし、いくら待っても19番はやってこない。左右それぞれのルートを回っているはずなのに、20番ばかりやってくる。 諦めてまずはガガーリン公園を散歩することにした。ガガーリン公園内には子供相手の子供鉄道が走っている。 遊園地もあるのだが、動いている様子は見えない。40分ほど周回の道を歩くと「王子ヶ池」の石碑と共に池が出てきた。石碑には「昭和11年8月豊原町長高橋弥右郎」とあり、製作者は宮城県石巻市の亀井さんという方だ。ロシアの人がこんな石碑を大事にしてくれていることに素直に感謝しなければばらないと思った。 |
6:19 | 8:26 | 8:50 | 8:56 |
朝食 | ガガーリン公園は旧豊原公園 | 王子ヶ池の石碑 | 王子ヶ池 |
◆お代りの値段 ガガーリン公園の横にメガパレスホテルがあった。ひと目で一流だとは思ったが、とりあえずトイレを借りようと中に入る。丁度遅い朝食の時間で、人がまばらなレストランがあった。試しにコーヒーだけ飲めるのかと聞くと、直ぐに流ちょうな英語で「イエス、プリーズ」が返る。一杯150P(355円)の味はセブンイレブンの100円コーヒーが味では上回る。砂糖もミルクもたっぷり付くのがここの流儀だ。ビートルズのレットイットビーがBGMで流れている。 ジョグで汗をかいたせいもあり、お代わりを頼んだが、さて会計はどうなるだろうと興味が湧いた。日本のホテルならおそらくお代りはサービスだろうと思いつつ、会計したらしっかり300Pを取られた。それがここのシステムなら文句をいう筋はまったくない。 外に出てサハリン通りで再びバス停に立ってみた。今度もまた20番ばかりだ。 15分ほど待ったがついに諦め反対車線のバス停で待つこと10分でちょっと大型の19番はやってきた。これまで乗ったバスはすべてワンマンカーで、運転手がお金の授受もやっていたのに、これには車掌が乗っている。年の頃60才に見えた女性車掌はロシア女性の典型的な豊満な体系の持ち主で、運転席横の席に座ったままで、さも面倒くさそうにお金を受け取り、切符を渡す。そう、切符を見たのも初めてだった。 大型、小型でシステムを変えているのだろうとは思うが、小型は一切切符はでない。金銭管理がどういう仕組みになっているのかが、気になった。19番は20番よりも南に大きく迂回するルートで、ガガーリン公園の南角に通じる道路からホテル前に戻ることが分かった。 一回り以上も乗っている私に対して車掌は何も言わなかった。そんな小さなことにはいちいち干渉などしないのだろう。 さすがロシアだ。 「小さいことは気にしない。大きなことは分からない。」 札幌の街で見かけたおじさんのTシャツに書かれた言葉をなぜか思い出していた。 |
9:58 | 10:13 |
バス停です | 珍しく大型バスに乗りました |
◆予想外の出来事 市場近くのバス停で下車した。列車まではまだ時間があったので、ショッピングセンターで見つけたフードコードに行き、早目の昼食をとることにする。フードコートにはドーナツ屋、一番という名のラーメン、フライドチキンなどファーストフードが中心だが、私はもちろんロシア料理のカフェテリヤ方式の中から黒パン2枚に、スープと野菜炒めを食べたが、味はまずまずだ。 駅に向かう途中にある市場の中を覗くと、初めて鮮魚を売っていた。毛ガニもあって、重さを計ったら800g以上あり、値段は2千円ほどで、日本の3分の1以下だろう。 11時30分に駅に行くと、同じホテル泊のYさんがいるではないか。聞けば同じ列車に乗る予定だという。既にチケットを持っているYさんは往復で700P(1659円)だと教えてくれたが、あまりにも高い。 とはいえ鉄道には是非乗りたいから1000P札を握りしめて列に並んだ。 私の番が来た。紙に書いた列車の往復の時刻を窓口に見せると、通じたようだ。往復で155Pだと言われ、キツネにつままれる。845Pの釣りと切符が戻ってきたから、意外だったが、ともかくこれで鉄道に乗れると小躍りしたのはいうまでもない。窓口の女性が早く列車に行けとばかりに合図する。事前にホームへの通路を調べていたYさんは外に出て、地下通路に向かう後を私と、地元のご婦人も追う。 し、し、しかしだ。ここで予期せぬ出来事が起きたのだ。なんと地下から地上に上がった扉には鍵がかかっていたのだ。直ぐに地下に戻ってその先まで猛ダッシュで走る。地下を抜けた上にはプラットホームらしきものはない。そばにいた鉄道関係者らしき人に聞いてもまったくラチが開かない。 列車の発車まで残りは1、2分しかない。再び地下通路を走り、再度扉に行くが施錠は変わらなかった。そうこうしている内に5分が過ぎ、10分が経過する。私は当然としても、事前に調べていたYさんはまさに途方に暮れていた。 ◆急展開 直ぐに窓口に行くが、言葉の壁はどうしようもない。もしかしたら緊急事態で運行取りやめになったのかもしれないし、この先遅れて出発するのかもしれない。しかしそれなら窓口で何か説明があってもよさそうだ。直ぐに私は切り替えた。バスターミナルに行き、ドーリンスク行きのバスガないかを調べるためだ。往路は諦めても復路の望みは残っている。 ここでも言葉の障害がある。しかし、神様は私を見放さなかった。ダメもとで近くの若者に英語を話すと、彼は英語で答えてくれた。直ぐにドリンスク行きの時刻表を見て、バスナンバー112、12時10分発があると教えてくれた。なんという急展開の事態だろうか。だから旅は止められない・・・・表向きは残念がっていた私だが、これもまた旅の面白さそのものだと、感じ入っていた。Yさんも一緒にバスに乗ってきた。 |
11:05 | 11:06 | 11:28 |
黒パン、スープ、野菜炒め | 黒パン、鶏肉のカツともう一品は豆腐もどき | 駅横にあるファーストフード店 |
◆法律 ドリンスクまでは115Pと鉄道よりは高かった。小さな町に似合わず、立派な駅舎の横にバスが着いた。しかし駅に人の気配はまったくない。入り口には鍵がかかり、内部に人影は見当たらない。裏に回ってみると、おばさん二人が駅舎のペンキ塗りの最中だ。話かけるが、答えを期待してはいけないのは分かっている。 ユジノ駅での訳の分からぬ顛末があるから、帰りの列車が果たして来るのかは賭けをしているようなものだ。Yさんはもしかすると早くバスで戻るかもしれないと話していた。ともかく16時05分までは3時間余りある。 Yさんと別れ、適当に町の探索に出かけた。一軒のお店に入ってみると、そこは酒場の雰囲気だった。髪の毛を沿った背丈160センチくらいの男がいたが、英語は通じない。すると彼は外にいた別の男を呼びつけた。40才前後に見えた男は英語はペラペラで、聞けばドバイに仕事で8年間行っていたという。 そして分かったことは、ここは酒場ではなく、単なる酒の小売だということだ。壁にはビールのサーバーが10数個あり、1L当たりの値段がついている。専用の持ち帰り容器も当然売っている。 500mlからの計り売りのビールなど初めて見聞きする。ここでは飲めないのかと聞くと、法律ではそうなっているとニヤっと笑う。以心伝心とはこのことか。タバコだって路上で吸うのは禁止だそうだが、誰もが加えタバコで歩いている。早速1Lが130P(308円)の生ビールを500mlもらい、カウンターで飲みだした。 ◆旅の醍醐味 男とはいろいろな話に花が咲いたが、話題の中心はプーチンについてだ。彼も店主もプチーンの熱烈な支持者だそうだ。ウクライナ問題の話をすると「ユークリア」と私には聞こえ、それって何だ?と尋ねると呆れた視線を向けてきた。スペルを書いてもらい、それが日本でいうウクライナだと分かるまで数分を要した。日本や欧米では評判悪いぞと言っても、確固たる支持は何も変わらない。昔のソのソ連のイメージは賄賂だな、というと、プーチン登場以来劇的に変わったのだと説明する。 ついでに列車の切符を見せるが、日付もなければ、発車時間も書いていない。この町に来た経緯を話すと、男は切符をみながら、よく分からないと繰り返す。地元民が見ても分からぬ切符をまして私がどうして理解できようか。 いやはやともかく、こんな田舎町でこんな素晴らしい店があり、そして、予期せぬ話ができるとは、まさに旅の醍醐味にならない。店には肉や鮭の乾物のつまみも充実していた。特に鮭のスモークサーモンの味は絶品で、思わず大人買いをしてしまう。 かれこれ1時間近く滞在してしまった。外に出て今度は逆方向に歩きだすと、商店が集まった2階建てのビルがあり、それを木造の簡素なお店が取り囲んでいる 不思議な商店街がある。 見知らぬ女性が何やら話しかけてきて、日本人だ分かると、一緒に記念撮影してほしいと頼まれる。今彼女の携帯にはその写真が残っているはずだ。 そこからさらに歩くとスーパーマーケットがあり、ここでもまた酒売り場でウォッカの品揃いのチェックを怠らない。そろそろ16時が迫ってきた。もう一度さきほどの酒場に立ち寄り、ビール一杯飲んで、土産用に乾物も買う。 駅に戻るとYさんも戻っていたが、駅員は誰もいないかった。 |
13:08 | 14:34 | 14:53 | 15:00 |
ドーリンスク駅 | 2歳になるかな | 商店の長屋 | 親子3代に見えましたが |
15:05 | 15:07 | 15:25 | 15:38 |
スーパーがありました | 雑貨売り場です | 害虫対策で幹に薬剤を塗っています | 生ビールを飲みました |
◆永遠の謎 ホームで粛々と到着時間を待つことにする。他に待つ人は誰もいない。両方向の信号はすべて赤になっていることから、このままでは列車は来ないことになる。Yさんも私もほとんど絶望に近い思いだった。16時を過ぎた。16時5分になろうとした時だ。なんとユジノ方面の信号が青になったのを見逃さなかった。ほどなくピーという音が聞こえてきた。ああ、間違いなく列車は来ると、確信を持った瞬間の喜びようは例えようがない。ステンレス色の2両編成のディーゼルカーがホーム滑り込み、急いで写真を撮って乗り込んだ。 はしゃぎ回る子供に戻ったのはいつ以来のことだろうか。他の乗客は7名はさぞ迷惑だったことだろう。車掌はどこかで見たなと思ったら、ユジノ駅にいた若い女性駅員だ。早速切符の検札があり、私の切符は通用したが、Yさんは改めて切符を購入した。いくつかの駅に停まる度に女性の駅員が現れて、出発OKの手札で合図する。50分ほどでユジノ駅に到着した。運転手に顔を出してとお願い、貴重な写真を撮ることもできた。ハラハラドキドキのサハリン鉄道の旅はやっとフィナーレを迎えたのだ。後はユジノ発の真相がどうだったのかさえ分かればいいが、これは永遠の謎に終わりそうだ。 |
16:06 | 16:11 | 16:12 | 16:13 |
ユジノサハリンスク行き列車到着 | 車掌は美人でした | 列車のトイレ | 鉄道に乗れて嬉しさいっぱい |
16:35 | 17:06 | 17:10 |
このポスターは理解できました | ユジノサハリンスク駅に着いた列車 | 運転手さんが写真に応じて |
◆ビールもどき 駅でYさんと別れ、私は市場近くのショッピングセンターで土産のウォッカとロシアのワインを購入した。夕食は昨夜の店で、店主お勧めの牛肉入りピラフと、牛肉とじゃがいも、玉ねぎの煮込みを頼む。隣の3人が飲んでいるビール風の飲み物が気なっていた。ジョッギでうまそうに飲んでいるが、果たして何なのかは分からない。一杯70P(165円)を頼んでみたが、ビールに似てはいるがどうも違う。 正直に言えば、既にビールを飲んでいて、よく分かなかったというのが正直なところだ。 昨日に続いて双子がいたので、日本から持参のお菓子を渡して写真を撮った。店主が私の娘だとい、背広姿の男は旦那ということだ。今日は一日よく飲んだから、もう十分だ。店の前の道をまっすぐ東に向かうとホテルにたどり着く。千鳥足ながら20分ほどで宿に着いた。ナターシャが迎えてくれたが、横にはプーチンも無表情で立っていた。お風呂に浸かり、今夜もまた冷やしたウォッカが寝酒代わりだ。ロシア最後の夜は21時まで起きていたのを覚えている。 |
18:12 | 18:12 | 19:26 |
食堂の一家 | 炊き込みご飯と牛肉の煮込 | 質素なホテルでした |
9月11〜12日〜宗谷海峡大荒れ編 |
旅程 11日 7時00分ユジノサハリンスク~送迎車〜7時37分コルサコフ10時15分〜フェリー〜15時10分稚内16時〜車〜20時30分小平町道の駅 12日3時40分小平町道の駅〜車〜北竜町経由〜5時58分札幌 |
◆スーパー 3時半過ぎに目覚めた。部屋に散らかった荷物をおおまかにザックを詰める。まだ真っ暗だから天気は分からないが、余り良くはなさそうだ。4時半過ぎにロビーに行くと、プーチンがバーで何やら飲んでいる。私を見つけてドアの鍵を開けてくれるが、相変わらず自分から挨拶することはない。私がするから、何やら返事をする程度だ。そう、ここはロシアなんだと自分に言い聞かせる。 ホテル前のコムソモール通りには人っ子一人歩いていない。南に向かい、直ぐに出合うコミュニスト通りを左折する。500m先で右折すると、南へ向かう大通りを一人占めしてジョグを続ける。車が通るのは1分に一台程度だ。碁盤の目になっているユジノの道路は常にホテルがある方角させ意識していれば、何の不安もなく走れるのがいい。大きなロータリーに来た。散水車が2台停まっている。雨でもないのに道路の端が濡れているのは、この車のせいだ。 ロータリーを右折して次の十字路に24時間営業のスーパーがあった。ロシアではアイスクームが美味しいと聞いていたのに、まだ試していなかった。店に入ると客はいない。従業員4名が品出しに忙しい。「いらっしゃいませ」の挨拶がないのにはもう慣れた。今日はもう帰国だから両替できない小銭はなるべく持ち帰りたくない。アイスを2個買って100P札を出すと120Pだった。200Pを出して80Pのコインが返る。その80で買えるものを探すと瓶詰めのピクルスがあった。アイスは軽いが瓶は重たい。何とかホテルまでジョグしながら戻ることができた。 |
6:07 | 6:55 |
帰国前の朝食です | 受付のナターシャ |
◆北海道拓殖銀行大泊支店 6時にバーにいくとナターシャが直ぐに朝食を出してくれた。パン2個、ごはん、鶏肉ハンバーグ、ニンジンサラダにコーヒーだ。朝運動していない人には十分過ぎる量だろうが、私には丁度いい。テーブル近くに寄ったナターシャをじっくりみたら、目の周囲に小じわを発見してしまう。当初は30歳前後かと思ったが、プラス10歳を載せた方がよさそうだ。 部屋に戻って最後のパッキングをする。ウォッカやワイン、ピクルスも買ったからザックの重さは30K前後はありそうだ。ユーラは7時に迎えに来るので、10分前にロビーに下りると、無表情なプーチンもいる。その姿を写真に収めようとしたら、あっさりダメだと言われた。顔は軍事機密に近いということか。 出発1分前にYさんがロビーに集合し、送迎車に乗り込んだ。無口かと思ったユーラだが、家族の写真を見せてくれたりと、なかなか社交的だが、いかんせん英語がほとんど話せない。 快調に飛ばしたおかげで40分ほどでコルサコフの町に入る。気を利かしたユーラが旧北海道拓殖銀行の前で停まってくれた。昔のままの建物の玄関上には「北海道拓殖銀行大泊支店」の文字がかろうじて読み取れる。戦後70年の風雪に耐えながら、まだ確認できる支店名を見た時に、感激、感傷、郷愁などの思いに駆られる。数人の客が出国事務所に待っている。10時出航だから出国手続きはまだのようだ。 |
7:43 | 7:45 |
北海道拓殖銀行大泊支店 | 北海道拓殖銀行大泊支店の文字が残る |
◆うつろな目つき ザックを置いて早速町の探索に出かけた。まだ小銭が残っているので、食料品店で瓶ビールを1本買った。それを飲みながら、通りをユジジ方面に歩きだす。5分先に交差点があり、この辺りが町の中心のようだ。通勤通学の時間だから、到着するバスは満員に近い。タバコ屋の前にきた。二人の男がたむろしている。30代に見えた一人がうつろな目つきで、私にタバコ賃をねだっているのが、手の動きで読み取れた。クスリをやっているのかな、と一瞬感じる。早々に日本語でお金はないよと、その場を去った。 8時30分事務所に戻ると既に出国手続きは始まっている。まずは税関だが、あっさりと機械の中をザックを通して終わり、出国手続きも入国ほどの時間はかからない。待つこと10分でバスガきて、桟橋を渡ってフェリーに乗り込んだ。渡された弁当はパン2個、ジュース、ソーセージ、密封されたハンバーグ、チーズを詰めたものだ。出航までまだ1時間以上あるが、早速100円ビールを買った。嬉しいことに9月10日の北海道新聞が売店前に置いてある。既にこの時点で船の揺れは結構なものだった。 ◆大揺れ 10時15分に岸壁を離れたフェリーは徐々にその舳を南西に向ける。港を出た途端に揺れはさらに大きくなり出す。だんだんと離れて行くコルサコフの町、果たしてまたこの地を踏むことがあるのだろうか。ロシアの地に立ったのは事実だが、例えれば、札幌ドームの隅で一匹のアリが1m四方の中を歩いていたに過ぎない。 復路で同乗したツアー一行も無事行程を終えたようで、それぞれ寛ぎながら、弁当を食べたり、ビールを飲んだり、おしゃべりに花が咲く。船内放送では揺れる海峡の告知を何回も流している。窓からはどんよりとした空が見えたと思ったら、次には荒れ狂う白波が目に入る。一旦は眠ろうと思ったが、それも叶わず、揺れる甲板に出て白波を見続けていた。 予定より遅れること40分で15時10分稚内港に接岸した。先頭に並んだ私はその10分後には入国の手続きを終えた。過去入念に調べられた成田空港に比べれば、無言のまま通過した税関だった。 |
8:07 | 8:12 | 8:19 | 8:20 |
レストラン?でしょうか | 朝8時のメインロード | 野菜売り | 冷凍鮭売っています |
8:40 | 8:46 | 8:53 | 10:05 |
埠頭へ向かうバス | アインス宗谷に乗船します | またこの地に来ることがあるだろうか | 岸壁を離れました |
13:28 | 16:00 | 16:14 | 16:21 |
配給されたお弁当 | 稚内が近づいてきた | 稚内港到着 | 車に乗っていざ札幌へ |
◆小平道の駅 稚内に一軒だけある回転すしに行き、帰国祝いを兼ねて寿司をつまんだ。16時過ぎ日本海沿いを一路南に向けて車を走らせる。天塩町で入った温泉は茶色く濁った湯だが、木酢を混ぜたような独特な臭いがあった。アンケートに答えたら500円の食事券をくれたので、80円追加してカレーうどんの夕食をとる。 さらに走り続けたが、運転に限界を感じ出す。苫前町道の駅は車で埋まっていた。さらに南下した小平町道の駅は新装になり、軒下にテントを張る。雨の心配があっただけに絶好の場所に思えた。翌朝3時40分、札幌目指して留萌まで来た時に、雄冬の国道が夜間通行止めの標識が目に入った。そのまま北竜町へ抜け、275号線経由で自宅に着いたのは5時58分だった。何はともあれ、今回の旅も無事終わりを告げる。過去訪れた国は30近いが、これほど言葉で苦労した国はなかった。それだけに強く印象に残る旅になる。洗濯や片付けは後回しにして、まずはそのままの格好で大通り公園目指して、ジョグに出かけた。旅は楽しいが、その終わりはいつも悲しい気持ちになるのはなぜだろう。 |