2002年7月29日 豊原(ユジノサハリンスク)市内散策
=写真をクリックすると大きなサイズになります=
 今日は富内湖からユジノサハリンスク市内を散策することに変更された。駅前ユジノサハリンスクの駅前には広い公園が広がっている。その一角には大きなレーニン像があり、ロシアは社会主義国家なんだと改めて認識する。Vの字の石碑もあり、名盤には1995年5月28日の日付が読み取れるが、どうやら地震の鎮魂碑のようだ。
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豊原(ユジノサハリンスク)駅前公園
 公園の中には、日本でも珍しくなった「日本時代のD51」が展示されていた。駅舎の外観はガラス張りで明るい感じだが、中に入ると一変する。キヨスクは牢屋のようで、小窓から売り買いする。時刻表はサハリンを中心に左右に表示されていた。
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日本時代のD51 豊原(ユジノサハリンスク)駅
 戦勝記念公園に立ち寄ると、戦車が台座に据付られていたり、大砲が据えられていた。日本では考えられないことだが、大砲には子供たちが群がって遊んでいた。大きなアドバルーンも揚げる準備をしているところを見ると何か行事が始まるようだ。サハリン市街を散策後、鈴谷岳(すすやだけ)(チエーホフ山)に登る。豊原(ユジノサハリンスク)から凸凹道をマイクロバスで登って行くと、ジャンプ台の下に着く。鈴谷岳は笠谷選手も飛んだといわれているジャンプ台が2つある。
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戦勝記念公園 ジャンプ台
 山頂から豊原(ユジノサハリンスク)が一望できる。駐車場では子供が二人でバッジとフラッグを売っていた。プレゼントだから金は要らないと言っているようだが、みなさん、小銭を渡す。
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豊原(ユジノサハリンスク)市街を一望 鈴谷岳(チエーホフ山)1021m
 相棒の祖母の納骨されていたお寺跡を訪ねる
 豊原駅の北東側に位置する第二地区に、お寺(景徳院)跡を発見し駐車場のポールに花束を刺して、岩崎さんに読経をお願いする。次に来るときに、分かるようにと町並みをカメラに収める。
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遂に景徳院の納骨堂跡に辿り着く
 これで、母の遺骨を置いて来た後悔の思いで、57年間過してきた相棒の叔母、タチエさんの肩の荷が少しは下りたと思う。
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寺跡と思われる町並み 供養をする
 愛棒の祖母の入院していた病院、博物館、日本人墓地を訪ねて
 樺太庁豊原医院(東3条南8丁目)は昭和6(1931)年に建て替えられたエレベータやサンルーム付きの鉄筋コンクリート造3階建て地階付きだった。今は、ユジノサハリンスク陸軍病院になっている。軍事施設という位置付けなので、門は閉ざされ、守衛がいる。
 写真を撮ろうとすると、守衛が中から出てきて門のところに立つので、中の様子がなかなか良く写すことができなかった。鳴海さんに言わせると、昔の面影はそのまま残っているようだ。
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供養した場所 樺太庁豊原医院
 泥川コースでない別コースの方が、兄の通っていた専門学校跡を是非写真に撮りたいということなので、一緒に探してみたが分からずじまいで、周囲の写真だけを写す。
 博物館は日本時代のそのままの姿をとどめていると言う。残念ながら、休館で中には入ることができなかったが、中庭をうろつくと大砲が展示されていた。
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専門学校跡? 博物館 大砲
 中庭には大砲だけでなく、日露戦争時代のバルチック艦隊の主砲も陳列されていた。記念写真を撮り博物館を後にする。
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大砲 主砲のプレート バルチック艦隊の主砲 博物館と記念写真
 博物館の近くの公園には旧式の戦争道具が陳列され、改めて、軍事優先のロシアを垣間見る。
 日本人墓地は残留邦人の方々が管理をしているだけあって綺麗だった。
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戦争道具を展示 日本人墓地
 日本人墓地にはツアー参加者全員と関係者が集まり、式典が始まる。私は日本人墓地のパノラマを写す。
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日本人墓地
 
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日本人墓地
 ホテルに帰ると平和の船に参加した人たちの集合写真を撮ると言う。順番を待っている間にホテルの前を散歩する。
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日本人墓地 ホテル前の風景
 
ホテル前で集合写真
 ホテル前からは鈴谷岳が良く見えていた。
 お別れ夕食会がホテルで開かれたが、例によってあいさつが長い、次から次へと永遠に続くようだが、みなさん我慢強い方ばかりだ。私は空腹と喉の渇きで死にそうだった。途中で、民族衣装の4人組みが出てきて、歌を歌いだす。
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ホテルから鈴谷岳を お別れ夕食会
 左から二人目がどこか和子叔母さんに似ていた。田中さんは三年間の抑留生活で覚えた歌を一緒に歌って、楽しんでいた。
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なにやらメモを(大×) 民族衣装による歌と踊り
 二次会は岩崎兄弟の部屋で行われた。一次会で十分飲んだのと、疲れたのか、昨日よりは早目にお開きとなる。
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