2002年7月26日
  豊原(ユジノサハリンスク)⇒30km,40min⇒小里(ペトロパヴロヴスコエ)
 朝早くから起き、泥川へ行く準備をする。トイレットペーパーは日本のような軟弱なものとは違い硬いと言われていたので、日本から持参したトイレットペーパーを使う。日本も昔は新聞紙を使っていた時代があり、お尻に字が写りそうだったが、痔にはならなかったと思う。ホテルのロビーに行くと両替が始まっていた。財布を出そうとポケットに手を入れるが財布が無い、仕方が無く部屋に戻り探すが無い。何気なく、別のポケットに手を入れるとあった。早速、ロビーに戻って無事に両替をする。皆さん、お腹が空いたのか席に座って待っている。
7/26 5:41 7/26 5:43 7/26 5:52 7/26 5:54
朝起きて直ぐ ホテルのバストイレ 両替 朝食のテーブルに
 朝食のテーブルには黒パンとバターが先に出されていた。恨めしく、見ながら朝食が出るのを待つ。壁には、開店7:30から20:00、朝食は7:30から9:00と書かれているようだった。現地時間は2時間足すので今はきっと8時頃になる。待ちに待った朝食は大きなウインナーソーセージとスープだった。朝食会場は各コースに分かれて行く人達が、故郷へ出発する日なので、活気に満ちていた。
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朝食のテーブル 開店の案内? 朝食 活気に満ちた朝食
 ホテルの前ではロシア人スタッフが4WDのトラックに荷物を積み込んでいる最中だった。どうやら、マイクロバス1台と4WDのトラック1台で出発するらしい。山登りに長靴スタイルでロビーとホテルの前で記念写真を撮る。
7/26 7:23 7/26 7:23 7/26 7:23(↑大) 7/26 7:24
ロシア人スタッフが トラックとマイクロバス ホテル ホテルの前で
 出発を待っている間ホテルの前を散歩すると、ホテルの前にはコンテナスタイルのコンビニが並んでいた。朝早くから開いているので感心したが、閉店すると店ごと盗難に遭うらしいらしい。盗難に遭うなんて本当かどうか分からないが、そう言えば、裏のバーも夜通し電気が付いていた。見上げるとホテルの看板があり、何と書いてあるか読めないが一応、写真を撮る。ホテルの前には出勤するのか歩行者も現れ活気が出てくる。
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ホテルの前のコンビニ ホテル ホテルの前
 泥川組は何処を見るのか地図を前に置いて、作戦会議を開いていた。私にはさっぱり分からないが、確りした地図で頼もしい。今度は、ホテルのロービーをうろつくと靴底形の木がボックスの前にあった。良く見ると靴磨き台だった。長靴には必要がないので、見るだけだったが面白いと思う。泥川組は「第26回平和の船の参加者の皆様を歓迎します!」と日本語で書かれた横断幕の下で記念写真を撮る。
 待ちに待った、出発の時間が来てマイクロバスに乗り込む。マイクロバスの助手席に乗り込んできたレーニアは私の叔父さんにそっくりだった。私と愛棒は馨さんと呼ぶことにした。
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菱取の市街地図 靴磨き道具 出陣 マイクロバスに乗り込み
 2002年7月26日
  小里(ペトロパヴロヴスコエ)⇒40km,1hr⇒雨龍浜(キリ−ロヴカ)
 途中、愛棒が誕生した所と思われる小里に寄る。小里はユジノサハリンスク(豊原)からおよそ30kmで、アニワ市(留多加)までは10kmくらいと思われる。この沢の奥が小合いの沢なのかはっきりしない。そもそも、小合いの沢自体が曖昧な訳なのだ。案の定、帰国して調べたら三郷村上多蘭内(セレノドーリスク)かもしれなかった。
 マイクロバスを下りて、道端に野の花の咲く濡れた砂利道を散策する。途中、バキュームカーが走り去る。暫し、静寂の中の何の変哲もない散策だが、何故か充実感が感じられる。
7/26 10:28 7/26 10:29 7/26 10:31 7/26 10:33
キオン カラフトダイコンソウ バキュ−ムカー カラマツソウ
 この田舎道を散策し、道端の道標の傍で記念写真を撮る。看板にはサハリンスクアルテック(子供の保養所?)とあったが、建物は何所にも見当たらなかった。現地の女性が通りかかるが、声をかけても変なやつらだと思ったのか振り向きもしないで、足早に去っていった。今度は子供が4人なにか言いたげに、おどけて通り過ぎて行った。
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散策中 サハリンスクアルテック 道標 4人の子供
 満足してバスに乗り込み、一路、次の経由地キリーロヴカ(雨龍浜)を目指す。アニワ市(留多加)を過ぎると、極端に道が凸凹になる。後ろの鳴海さんは堪らず、立ち上がって、腰をかばっていた。それも駄目で、前の席に移動する。相棒の住んでいたと思われるタラナイ(多蘭内)は何時過ぎたのかも分からないまま、オリホヴォートカ(幌内保)、池月浜、渋内、バチンスカヤ(南池月)、コピーリカ(初見沢)と進む。
 ウリューム(雨龍川)に着くと、川の向こうに軍事仕様のトラックが2台待機していた。岩崎さんは前に来たときと同じ運転手がいると言った。
 まず、トイレタイムを取り、ランチボックスで腹ごしらえをする。ついでにトイレタイムで草原に行くとイネ科のアキノエノコログサと思われる花が揺れていた。
7/26 11:49(↑大) 7/26 11:49(↑大) 7/26 11:53 7/26 12:07
雨龍川 軍事仕様のトラック ランチボックス アキノエノコログサ
2002年7月26日 雨龍(キリローヴカ)⇒20km,2hr⇒泥川(ウリャーノヴカ)
 いざ、泥川へ!軍事仕様のトラック2台と4WDのトラック1台に分乗する。女性陣1台と男性陣1台に別れる。このとき、太ったロシア人が乗り込んできた。帰りに分ったのだが、漁師のボスらしい。雨龍川を渡ると、雨の中、国境警備隊の検問があった。若い兵隊がチエックしていた。ロシア人もパスポートなのか身分証明書なのかを見せていた。私がパスポートを見せる番になったらもう良いと、無罪放免になった。
 これから、泥んこ道をトラックのボディーに立ち木を擦りながら進んで行った。海岸の出ると、砂浜を走って行く。途中にゲートがあり、国境警備隊が開けてくれたようだ。海岸には昆布が山のようになっているので、避けながら行く。昆布に乗り上げると以外と滑るらしい。雨が降っていたので、何処を走っているのか分らなかった。とにかく、荒海に小船で出たときのように揺れ動く。芳内(よしない)川の河口近くに漁師の小屋があり、そこで、乗り込んできたロシア人が下りた。
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いざ、泥川へ! 雨龍川上流を望む  昆布の山が行く手を 昆布の山と漁師小屋
 浜辺は打ち上げられた昆布が山になっていて、行く手を塞ぐ。時々昆布の山を避けるために下りてルート取りもする。途中に漁師の家がある。軍事仕様のトラックでも昆布に乗り上げると結構スリップするので、昆布の山を避けて走る。
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昆布の山のルート取り 昆布の山を避けて 漁師の家 昆布の砂浜を行く
 延々と続くかに見えた昆布の山の浜辺も、ようやくハマナスが咲く浜辺になる。最初に渡渉する川は「芳内川」だった。芳内川は川幅は狭いが綺麗な川だった。運転手は川を渡るときには慎重にルートを決めるため、下りて河口を歩いていた。芳内川を歩いて渡ると、ハマベンケイソウの青い花も咲いていた。小さな4WDのトラックは大きな軍事仕様のトラックに引っ張られ川を渡った。この4WDのトラックには、われわれの食料やキャンプ道具が積まれている。
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ハマナスの咲く浜辺 芳内川を振り返る ハマベンケイソウ 芳内川を渡る
 芳内川を振り返り、再び、海岸線を進む。
7/26 13:35
                      ←大
芳内川
 次の菱取(ひしとり)川(タンボーヴカ)は大きな川で、この渡渉には細心の注意を払い、ルート取りをしていた。
7/26 13:44
                                      ←大
菱取川(タンボーヴカ)を渡る
 3台が無事渡りきると、また、昆布の山が待ち受けていて、4WDのトラックが昆布の山に嵌りながら軍事仕様のトラックに牽引されながら、ひたすら砂浜を南下する。
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菱取川(タンボーヴカ)を渡る 昆布の山に嵌る 砂浜を南下する
 次の川は鉢子内川で、この川を渡ると泥川の端に着く。
7/26 14:17
                                     ←大
鉢子内川を渡る
 鉢子内川を渡り、更に進むと焼け落ちた家の近くに着いた。どうやら泥川の直ぐ手前の鉢子内(はちこない)らしかった。鳴海さんは、泥川の市街地跡でキャンプすると言って、車を進ませた。
 まもなく、二つに折れた火の見櫓のある市街地(基点)に着いた。この近くには防空壕があったと誰かが話していた。火の見櫓は古い地図では左に記されていたが、今は右にある。
 雨が降る中、愛棒は57年目の里帰りだった。良く来たと誉めてやりたかった。空耳だったかもしれないが、誰かがこの雨は先祖の涙だと言っていた。
7/26 14:18(↑大) 7/26 14:19(↑大) 7/26 14:24(↑大) 7/26 14:24(↑大)
鉢子内川を渡り 鉢子内川辺 泥川の市街地跡 泥川の市街地跡
 2002年7月26日〜28日 泥川(ウリャーノヴカ)キャンプ
 26日(1日目) 
 ノマドの伊藤さんとレーニヤは周辺の斥候に出かける。鳴海さんと岩崎さんは直ぐ、釣りに出かけた。その間、残ったもので、キャンプの準備をしたり、夕食の準備をする。私は始め浜辺を散策ていたが、花田家5人で散策に出かけることにした。行き先は、勿論、実家跡だった。まず、十字街の櫓で記念写真を撮り、真っ直ぐ擂鉢山を見ながら奥へ進む。次の、十字街の角に花田の実家跡があり、南側には泊尾橋が見えていた。
 ノマドの伊藤さんとレーニヤが帰ってきて、熊の生息密度が高いので浜辺だけの散策を許すと言う。実際、熊の糞や足跡は見飽きるほどあった。
 レーニヤは何故か、私だけを連れて奥地に行こうと言わんばかりに誘う。二人で、奥地へ行くと水溜りを指差して見ろと言っているようだった。水の中にくっきりと熊の足跡が見えた。レーニヤは盛んにメドベンジャと言っている。どうやら、ロシア語で熊のことらしいのだが。 
7/26 14:50 7/26 14:50 7/26 14:51(↑大) 7/26 14:55(↑大)
ハマハタザオ 市街地(基点) 花田の実家跡へ 実家前から泊尾橋
 青い綺麗な花が水の雫に包まれたように咲いている浜辺へ一旦戻る。南へ突き出している砂洲から泊尾橋を見たり、泥川の流れを見ながら散策する。泥川は昔の流れを変えて、地図にある古い川と記された場所を流れているようだった。
7/26 15:09 7/26 15:12 7/26 15:14(↑大) 7/26 15:14(↑大)
ハマベンケイ 浜辺へ戻る 泊尾橋 泥川
 今度は、ハマナスや青い花の咲く浜辺を北へ向かい、市街地跡を目指す。白いヨモギのような花も咲いていた。
7/26 15:16 7/26 15:19 7/26 15:42(↑大) 7/26 16:05
ハマナス エゾルリソウ? 市街地跡を散策 シロヨモギ
 熊の糞は呆れるくらい至る所にあり、段々麻痺してくる。小沼と泊尾橋は何故か絵になり、郷愁をさそる。道端にある鉄板の道標なのか注意書なのかわからないが立っていたり、白い花も咲いていた。
 始めにねぐらを決めることになった。女性陣5人はトラック1台、男性陣はトラックに5人、岩崎兄弟は1張のテント、伊藤さんと私は1張のテントとなった。
7/26 16:07(↑大) 7/26 16:10(↑大) 7/26 16:42(↑大) 7/26 16:44
熊の糞 沼と泊尾橋 道標?注意書? 白い花
 田中さんはロシア人が流木を輪切りにしたのを鉞で割って薪にした。その薪で料理をして夕食を作る。鳴海さんと岩崎さんが釣ってきた赤魚を焼いて夕食のメニューに一品加えた。
 間もなく、食事が始まり、食べたり飲んだりした。全く話しが通じないが、酔っ払ったら同じだ。私は今日のためにインターネットで取り寄せた新宿の喫茶店「ともしび」の歌集を取り出し、日本語でロシア民謡を歌う。ロシア人も歌っていた。歌集にはロシア語で書かれたのはカチューシャだけだったので、ロシア人は何でこれだけなんだと言っているようだった。私が歌集を縦に見ていると、ロシア人はなんで縦なんだと歌集を取り上げ横にする。
 あっという間に寝る時がきたが、気がついたら、ロシア人1人と私だけが飲んでいた。ロシア人も何処かへ行ってしまったので、私も伊藤さんの寝ているテントに入った。
7/26 17:13 7/26 18:04(↑大) 7/26 18:20 7/26 20:09
流木を割る 料理を作る 釣った魚を焼く ロシア人スタッフ
 2002年7月26日〜28日 泥川(ウリャーノヴカ)キャンプ2日目へ